斎王は奈良時代に定められた制度で、天皇の名代として伊勢神宮の神に奉仕するために、宮中から派遣される未婚の皇女を言う。記録の上での最初の斎王は、天武天皇の娘で、大津皇子の姉にあたる大伯皇女であった。天皇家の未婚の皇女の中から卜(ぼく)定(じょう)によって選ばれるのが原則で、平安時代、斎宮に選ばれると、まず、初斎院の中に隔離されて身を清め、然る後、嵯峨野の野宮へと場所を移し、足掛け三年におよぶ厳しい精進の修行が続いた。三年目を迎えた九月、斎王は伊勢神宮の神嘗祭に合わせて都を発ち、伊勢神宮に向かう。出立の朝、斎王は、野宮を出て、桂川で禊を行い、平安宮に入り、大極殿の発遣の儀式に臨んだ。その際、天皇は平床の座で斎王を待ち、手ずから斎王の額髪に御櫛を挿した。天皇は斎王を同格と認め、伊勢神宮の祭祀を託したのである。都を後にした斎王は五泊六日の行程で『斎宮』に向かった。総勢七十人程度の行列で、これを『群行』と呼んだ。
『頓宮』は、平安初期は近江国府、甲賀、中柘植の芝、鈴鹿、壱志であったが、後期には、中柘植の芝は廃止され、土山の垂水がこれにかわった。斎王は穢れを忌み、群行中でも潔斎を続けなければならない。従って、頓宮は清流の流れる川に近いことが条件であった。
 松姫の実家近江守護家は将軍の庇護者である。居城の観音寺城のある繖山には、西国三十三所観音霊場の一つ観音寺があった。
 紫式部が参篭して、源氏物語の構想を練ったと言われる石山寺も、西国三十三所観音霊場の一つで、こちらは、十三番、繖山観音寺は三十二番の札所である。定頼が瀬田川の橋の修築を本願寺に命じたことがあった。松姫が十一の頃で、定頼は、三人の姫たちを連れて石山寺に参篭した。
その時、すぐ上の姉(土岐寄頼芸室)は松姫に、石山寺は、平安宮廷女流文人たちに深い感応を引き起こし、女流文学開花の舞台になったと教えてくれた。紫式部、和泉式部は勿論のこと、更級日記の菅原孝標の女、蜻蛉日記の右大将道綱の母、どの女流文人をあげても皆、石山寺に参篭し、深く、篤く信心していたと言う。