羽林の母堂となごやかに時を過ごした松姫は霧山の城に帰ってから、萩野の言ったことについて夫に聞いてみた。
「萩野の言ったことなら、土地の者なら皆知っている。だが、萩野の口から言われると単なる伝承が疑いない事実として定着するから不思議なものよ。…萩野の兄は本居惣介といって七百石取りの武者頭であるが、万葉集の研鑽には日頃から目が無い男での…」
と言い、右筆で一志小原に住む一族衆の歌人、北畠権少将源国永を呼んで説明させた。
「十市の皇女さまの一行は川口の頓宮で宿を取られた三日目の朝、下世古においでになり、清水橋の袂の大岩をご覧になられました。万葉集二十二番のお歌は数多(あまた)の斎宮が禊をしたと言われる波瀬川の大岩の神々しさに打たれた吹黄刀自が、傷心の十市皇女をお慰めしようと詠んだ歌にござりまする。その地は波多の横山と呼ばれ、平安遷都されて後、斎宮群行の道筋が変更されてからは、この地に一志頓宮が置かれることになりました」
 頓宮というのは、斎王の群行(行列)が泊まった宿でのことで、伊勢神宮までの斎宮の宿泊所を言う。