「…国永殿とて、主家滅亡の後は、大変でござりましたな。ご子息具就殿は如何お過ごしでござるか…」
「倅は死んでしまいました…。北畠のお方様がご自害なされて、与志摩殿が伊賀の観音寺様に連絡に発たれたその日、倅が死んだという通知がござった。しかし、何故、倅が死んだのか、どのような有様で死んでいったのか、それがしには、今も、さっぱり分からぬのでござる…」
「…今の今までご健在と思うておりました…。なんとお悔やみ申し上げたら良いやら…」
「あれは永禄二年の秋でござった。与志摩殿が丹精込めて活けた白菊の花をお方様と詠み交わしたことがある。その時、お方様は元服前の具房様のことをいろいろとお頼みであった。お方様のお言葉に従い、ただただ具房様をお守り出来ればと倅を近侍させたが、お方様の願いを叶えることは出来なかった。申し訳なく思っているのはこのわしも同じこと」
 
 国永は具教の命日にも、子息具就の命日にも歌を詠まなかった。

 しかし、具房が死んだ天正七年正月五日、南無阿弥陀仏の名号を五文字の上に据えて、七首詠じている。
 
 不遇の具房に、同じ三十代で戦死した二人の息子を重ねたのであろう。息子を亡くした深い悲しみは、具房という触媒を得て、ようやく言葉として発露されることが可能であったのだろか…。

 もとよりも 帰らぬ道に ゆく人と しりても今ぞ 更に驚く