光秀軍の中央先鋒は斎藤利三・柴田源左衛門・阿閉貞征らの部隊で、明智主力部隊である斎藤利三隊には、北畠旧臣らも家の子郎党七十余を引き連れて参戦していた。
秀吉軍の右翼(川の手側)池田恒興・加藤光泰・木村隼人・中村一氏の四隊が淀川沿いに急発進して、明智勢の左翼から主力斎藤隊を包囲する。
明智の左翼はなぜか手薄であった。斎藤・阿閉隊を中にして中村一氏・一榮兄弟の鉄砲騎馬部隊が集中攻撃を加える。斎藤利三は懸命に奮戦したが堪え切れず、次第に崩されていった。
旧幕臣・伊勢与三郎貞興、諏訪飛騨守盛直、山本対馬守秀勝らは斉藤隊と並河・松田隊の中間右備に布陣して戦ったが、中川・羽柴秀長隊の猛攻を受けて戦死した。
御牧三左衛門景重は総崩れの後、光秀に勝竜寺城への退却を進言して討ち死に、溝尾勝兵衛らと勝竜寺城を脱出した光秀は再起を図るべく坂本城に向かうも、途中小栗栖で土民に襲われて落命する。
日の傾く頃、終戦、その後、逃亡を続けた斎藤利三は十七日に京都白河の民家において自決した。
利三に請われて明智の主力部隊に身を投じた北畠旧臣八十余名は、先手として円明寺川(長岡京市)に沿って前進した。しかし、鉄砲部隊に猛攻を加えられて苦戦、芝山秀時、大宮吉守、同光成、松永秀次、大嶋頼通、蔵原森信、家城頼高、稲尾時秀、鈴木重家、畠山高重ら十名は総崩れの後、市中に敗走、西天王寺の山中や揚谷観音の近くで掃討されて戦死、鳥屋尾蔵之助は生死不明、従う郎党は皆立ち腹を切り命果てた。
秀吉軍の右翼(川の手側)池田恒興・加藤光泰・木村隼人・中村一氏の四隊が淀川沿いに急発進して、明智勢の左翼から主力斎藤隊を包囲する。
明智の左翼はなぜか手薄であった。斎藤・阿閉隊を中にして中村一氏・一榮兄弟の鉄砲騎馬部隊が集中攻撃を加える。斎藤利三は懸命に奮戦したが堪え切れず、次第に崩されていった。
旧幕臣・伊勢与三郎貞興、諏訪飛騨守盛直、山本対馬守秀勝らは斉藤隊と並河・松田隊の中間右備に布陣して戦ったが、中川・羽柴秀長隊の猛攻を受けて戦死した。
御牧三左衛門景重は総崩れの後、光秀に勝竜寺城への退却を進言して討ち死に、溝尾勝兵衛らと勝竜寺城を脱出した光秀は再起を図るべく坂本城に向かうも、途中小栗栖で土民に襲われて落命する。
日の傾く頃、終戦、その後、逃亡を続けた斎藤利三は十七日に京都白河の民家において自決した。
利三に請われて明智の主力部隊に身を投じた北畠旧臣八十余名は、先手として円明寺川(長岡京市)に沿って前進した。しかし、鉄砲部隊に猛攻を加えられて苦戦、芝山秀時、大宮吉守、同光成、松永秀次、大嶋頼通、蔵原森信、家城頼高、稲尾時秀、鈴木重家、畠山高重ら十名は総崩れの後、市中に敗走、西天王寺の山中や揚谷観音の近くで掃討されて戦死、鳥屋尾蔵之助は生死不明、従う郎党は皆立ち腹を切り命果てた。