治承四年(一一八〇)、武田信義は頼朝に応じて挙兵、戦功を立て有力御家人になる。六代後の信武の長子信成が甲斐源氏の嫡流となり、三男氏信は安芸武田の祖となった。氏信から三代後の信繁に至り、長子信栄が足利義教に背いた一色義實を討ち、その巧により若狭の守護に任じられて、若狭武田の祖になり、安芸武田の方は四男元綱が継いだ。
 広範な血脈を誇る武田一党であったが、とうとう嫡流の甲斐武田は信長に滅ぼされてしまい、一人傍流若狭武田の五郎信景だけが恵林寺に止まることになってしまった。
紹覚より甲斐武田の滅亡が知らされた時、信景は、
『自分も祖廟の地に果てるべきだ』
と覚悟した。恵林寺の僧侶らと焚殺されるより、武士らしく戦いの場で潔く死のうと思ったのだ。この決意は、高定一行と恵林寺で別れた時、すでに五郎信景の胸にあった。しかし、言えば従兄弟にあたる高定も必ず残ると言うに決まっている。分かっていたから心ならずも、大和孝宗に、
『武田の祖廟に参ってから必ずあとを追う』
と嘘を告げたのであった。
 一方、目結の鎧を纏っている武将は、高定が幸姫や耀姫を僧形に変えて寺を脱出した際、叔父頼芸を守るように言いつけて恵林寺に残した勘助である。勘助は高定から形見の鎧、兜を貰った時、伊賀の百姓の伜が名のある武将として戦い、死ねることをまず喜んだ。 そして、高定として死ぬことが結果的には主君を助けることの栄誉に通じ、また、主君の恩に報いることでもあると信じて自分の影武者としての振る舞いに誇りと自信を持った。それで、信景が打って出たのを良い機会と見て、ともに戦ったのだ。