「…恐れながら申し上げます。恵林寺の住持は帝より昨年、大通智勝という国師号を賜った名僧にござります。助命の儀、伏してお願い申しあげまする…」
 明智が助命を願い出たのは、快川和尚が同じ美濃土岐氏の出自であったからである。幼少の頃に光秀も父光綱と共に南泉寺で幾度も快川和尚の説法を聞いたことがある。光秀の人格形成や参禅、修学に多大の影響を与え、教養人としての光秀は快川の存在なくしてはあり得なかった。まさに心の師と呼ぶにふさわしい和尚である。
「わしが与えた国師ではない。恵林寺住持の助命、罷り成らぬ。よいか光秀、天下布武とは、武士が天下をほしいままにすることじゃ。天下のことはすべてこのわしの手中にある。努々(ゆめゆめ)忘れるでない」
 信長は光秀の助命嘆願を撥ねつけた。
四月二日、大雨の中を、信長は予定通り諏訪を立って甲府の大ケ原に陣を移した。
 その日の午後、躑躅ケ崎の信忠は織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉らを奉行にして佐々木二郎隠し置く過怠を糾弾すべく恵林寺を包囲した。すでに二度程使者を出して、佐々木二郎らの引き渡しを求めていた。
「引き渡すことは出来ぬ。寺は守護不入、また信玄公の菩提寺でもある。即刻に立ち去れ」