三月十八日、高遠城に陣を移した信長は、翌日、上諏訪の法華寺に本陣を構えた。
 信長からの働きかけに応じて、勝頼を捨てた武田の重臣、跡部大炊助、長坂長閑、武田逍遙軒信廉、武田典厩信豊、小山田兵衛信茂らが、信長の約束を信じて、法華寺の本陣に降伏した。引き出された面々に、信長が吐き捨てる。
「そのほうらの性根は腐りきっておる。かくも惨めな武田の滅亡はそちらのような不忠の臣らが招いた結果であり、決して勝頼一人の罪ではない。そなたらは信ずるに足らぬゆえ、この場で成敗いたす。覚悟いたせ」
うろたえる武田家旧臣を信長は即座に切り棄てさせた。
 二十日、木曽義政に築摩、安曇の信濃二郡を所領として与え、穴山梅雪には甲斐、駿河にある所領を安堵した。二十三日、滝川左近将監一益を召し、上野の国、ならびに佐久、小県の信濃二郡を与え、関東八州の警護を命じる。二十八日、甲州平定を終えた三位中将信忠は、戦捷報告のため、甲府躑躅ケ崎の陣から上諏訪法華寺の信長本陣へ参上する。その日は時節違いの時雨が降り寒風が吹きすさんだため凍え死ぬ兵士が多数出た。
「これより直轄軍は解散する。諸卒は国許へ帰し、頭分だけの供を命ずる」
 寒空を見上げた信長は兵卒の帰国を許可する。
 翌二十九日朝、信長は、甲斐の国を直轄領とし、代官に河尻与兵衛を任命した。次いで、駿河を家康に与えて、十数条にわたる甲斐、信濃の法令を発布し、昼過ぎてから、法華寺で名残の茶事を催した。亭主は千宗易、相伴は信忠、近衛前久、明智光秀であった。その席で、信長は信忠に命じる。
「今日よりその方に軍団の指揮を委ねる。当分は諏訪に留まり甲州・信濃の静謐を見届けよ。さて、恵林寺は佐々木義賢の次男を隠し置くと聞いた。六角は本願寺、武田、浅井、朝倉を画策し最後までわしに逆らった一人じゃ。そなたも覚えていよう、杉谷善住坊を使嗾してわしを狙撃させた男じゃ。奴は生きている限りわしを狙うに違いない。かつて奴らは織田包囲網なるものを作り、わしを封じ込めようとした。関白には懐かしい言葉ではないか。…光秀、そちは恵林寺に罷り、匿われている佐々木二郎を捕らえて参れ。差し出しを拒む時は、坊主どもを寺に押し込めて即刻焼き払い、皆殺しにするのじゃ」