「これでは如何ともなしがたく、鶴瀬に落ち、駒飼の山中に引きこもることになった次第にござります。お馬を引き出し、鞍を置いて差し上げる口取りとて居ず、侍大将の土屋惣蔵様と秋山紀伊守様がお屋形様のお馬の世話をなされ、亀の甲の御槍は阿部加賀守様とお守り役の温井常陸守様とで担いで行かれることになりました。その時点で、秋山摂津守や長坂長閑、跡部大炊介らの重役はお屋形様を見限ってしまったのでござりましょう、すでに何処(どこ)ぞへか、逐電(ちくでん)してお側に影さえ見せぬ始末。それでも、昨日は田野という七、八軒の集落に辿り着くことが叶い、平屋敷に柵を設けて陣を構えることが出来ました。ところが、天目山の土民ら三千余人が辻弥兵衛に煽動され、一揆を起こして攻め来たったのでござります。それだけではござりませぬ。下手からは滝川一益の軍勢三千余が、悔しいかな、裏切り者小山田信茂の家臣らに手引きされ川沿いの道を長々と連なって攻撃して来るではござりませぬか。ここに至り、とうとう万策尽き果ててなす術もなく、悲しいことではござりますが、本日、巳の刻(午前八時)、お屋形様は、一門の女房、子供を次々と刺殺なされてご自害、嫡子信勝様はお屋形様の自刃を見届けた後、討って出て斬り死になさいました。最後までお付き申し上げた四十一人の武者も皆討って出、残らずおとも仕りましてござります。ご自害して果てた侍女は二十三名。大竜寺の麟岳和尚もお屋形様のお供をして冥界に旅立たれました」
 武田家滅亡の悲報である。
語り終えた紹覚ははらはらと涙を落とした。