恵林寺が創建されたのはそれから五十二年後のことである。すでに高僧になっていて、北条高時から建仁寺や円覚寺に入ることを要請されていた疎石であったが、それを断って、甲斐の国牧の荘の東に庵を編んで移り住んだ。これに領主二階堂出羽守貞藤が、笛吹き川上流の所領を施入したのが恵林寺である。また、夢窓国師は土岐頼貞の招きを受けて、土岐川の畔に虎渓山永保寺を開いており、土岐氏との関係も深い高僧であった。

高定と五郎が恵林寺に戻って五日目、信玄の葬儀から六年を迎えようとする天正十年三月十一日の夜のことである。
黒衣の僧侶が恵林寺の山門を急ぎ足で入って行った。書院に通されたその僧侶は、名を紹覚と言った。

 紹覚は武田が滅亡したことを快川和尚に伝えた。高定主従や将軍家使者武田五郎らの一行も国師の横に控えて紹覚の告げる武田の末路に耳を澄ます。
「小山田八左衛門と武田左衛門佐伸光が小山田兵衛様の母を奪い、お屋形様に鉄砲を撃ちかけて織田に寝返ったのが、一昨日のことでござりました。このため、お供の方々のほとんどが逃げ散ってしまい、残ったのは主従合わせて僅か四十数人と言う有様…」
 紹覚は無念の余りしばし嗚咽し、さらに言を続けた。