退却していく敗軍の殿(しんがり)は真田昌幸であった。武田一筋に仕えた昌幸は馬上から高定に黙礼して去っていったが、毅然とした後ろ姿は、二度と勝頼の佞臣どもとは共に戦わぬことを表明していた。勝頼の衰亡に直面し、かつて恩顧を受けた信玄への報恩を志したが佞臣どもの壁を打ち破ることは出来なかった。彼は沼田に帰るにちがいない。勝頼はまた一人勇者を失ったと思った。
高定は憔悴して去っていく敗軍の一団を視界から消え去るまで見送った。
「殿、我等もそろそろ出立いたしませぬと…」
 辻和泉守が高定を促したのはどこからともなく人肉の焼き焦げる匂いが発ちはじめたからである。 
 出立の前、長坂長閑らの側近は、人質として新府城に止めおかれていた近隣領主の妻子数十人を惨殺していたのである。
「恵林寺に戻る」
 乗馬した二郎高定は辻和泉守、本次左京進、久内、鹿之助、勘介ら五人の従卒をしたがえ、五郎信景、大和孝宗、上福院らと牧の荘へ馬を駆った。
 
 恵林寺は臨済宗の寺で、元徳二年(一三三〇)に夢窓疎石によって開かれた。夢窓国師は伊勢安濃郡片田郷井戸の地頭佐々木朝綱の嫡男として生まれた。父朝綱は六角の祖となった泰綱の孫にあたり、国師の母は北条政知の娘であった。
寿王丸と名乗っていた四歳の時、土地の支配権をめぐる東寺との紛争がもとで、東寺公文頼尊が動員した悪党三百余騎に攻め込まれ館を焼かれた。このため、伊勢を追われた一家は甲斐の国の地頭二階堂氏を頼って落延びた。しかし、その地で父朝綱は母を離縁し寿王丸を廃嫡にして、頼った牧の荘の領主二階堂行藤の妹を娶ってしまう。
寿王丸は異郷で寂しい生活を始めることになり、他国で望みを失った母親はまもなく病没した。父親はなにかと領主に取り入り、新天地で力を得ようと強引に行動したが、やがて、争いごとに巻き込まれて死んでしまう。寿王丸はその後、平塩山寺に入寺して空阿に師事、真言宗や天台宗を学んだ。