天正元年九月、客人衆となって以来、ずっと勝頼の側にいる高定は、近頃では勝頼側近に人材はいないと思うようになっていた。
 ほとんどの家臣が己の栄達と保身に汲々としていて、勝頼のために身を捨てて忠義を尽くそうと心底覚悟している者が少ない。このことが、今回の敗因であると高定は思った。辛辣な信勝の発言に、評定の場は悲しく静まり返るばかりである。
「どうかお屋形様には、上州吾妻に御籠りなさいまするように願い上げまする。わが沼田城は小城ではござりますが、越後上杉、相模北条の角遂の的たる要衝にござります。両者を操れば、十分に武田家再興の基盤足りうる場所と確信いたします」
 しばしあって口を開いたのは、真田昌幸であった。自分が縄張りした新府城が完成を見ないうちに、武田滅亡の危機に直面し、十分に責任を感じているらしい。すると、間髪を入れず声が飛んだ。
「それはなりませぬ。この城を出られるとあらば、是非とも我が岩殿城へお越し下さりますように。命をかけて一族領民でお屋形様をお守りいたしまする」
 言ったのは側近で佞姦(ねいかん)と評判の小山田信茂である。今まで、勝頼は信茂以外の進言を悉(ことごと)く退けていた。
それを見越したように、
「恐れながら真田家は一徳斎幸隆以来、わずか三代にわたり召し使われた家筋にござります。真田沼田にお籠もりあるより、ご譜代の小山田兵衛が申し出た群内岩殿へのご籠城になされては…」
佞臣の一人長坂長閑が勝頼に阿諛(あゆ)した。