諏訪の陣中を梅雪謀叛の一報が震撼させる。勝ち目の無くなったことを悟り、典厩信豊をはじめ、多くの旗本、武将らが諏訪の本を見捨てて、それぞれの本拠に引き払って行く。
 信玄の弟で、勝頼の叔父逍遥軒信廉などは伊奈口に出陣していて、北上する信忠軍に遭遇すると、一戦も交えることなく逃走して高遠城に逃げ込んだ。そのため勝頼の諏訪本陣には僅か一千余騎が残るのみである。やむなく勝頼は諏訪上原城を引き払い、新府に帰城した。
 
承禎の次子二郎高定は、本次左京進、辻和泉守、伊賀者勘助、それに昨年末に義昭の使者として甲斐武田に派遣された武田五郎信景、大和阿波路守孝宗、使僧上福院らと諏訪上原城にいが、残存の一千騎を引き連れて戻った勝頼軍に合流して新府城に入った。
 
 信玄は、在世中、府中(甲府市)周辺には防御施設を構築しなかった。しかし、その武田もやがて始まろうとする信長の総攻撃に備えて、躑躅ケ崎館より約四里先の釜無川右岸の地に新城を着手した。城は七里ケ台の上に構築され、実質的な縄張りは重臣の真田安房守昌幸が行った。