義治が帰京して間もなく、鞆津の久野姫を尋ねて、伊予今治の領主小川土佐守祐忠の使いの者がやって来た。小川祐忠は通称孫一郎といい、元亀二年までは小川城主として六角の家臣であった。秀吉に仕えた孫一郎は伊予今治七万石の大名になっている。
 義治はお伽衆に加えられたとき、謝辞を述べるため、義昭とともに大坂城に秀吉を訪ね、帰洛の挨拶をしたが、城内で小川祐忠にあい、久野姫や鞆麿の面倒を依頼していたのである。
 ところが、文禄三年、久野姫は病に倒れ、鞆津で帰らぬ人となった。
 祐忠は久野姫の訃報を義治に伝えて、残された具親遺児鞆麿の身の振り方についても面倒を見る約束をした。
 使者を鞆麿のもとに遣り、心中を訊ねさせると、
「両親とも伊勢で果てたのであれば、伯母の遺骨も伊勢に持ち帰り、ともに菩提を弔おうと思います」
 鞆麿は使者に胸の内を淡々と語った。祐忠は義弟・一柳直盛(尾州黒田城主)にも鞆麿のことを話していた。
 鞆麿が伊勢に帰ったのは、関が原の戦功で、直盛が桑名城主になって後のことである。
 直盛は鞆麿の願いを聞き入れ、北伊勢員弁郡の志礼石に土地を与え、郷長に任じた。藤堂家の無足人、紀州藩の地士と同格の扱いで処遇したのであった。その時、亀千代は鞆麿とともに伊勢に帰ったが、金児明応丸は、津之郷深津に残ってその地に帰農した。鞆麿は慶長五年十一月に鞆津より志礼石に移住した。
 この年、鞆麿は二十一歳になっている。成人して名を具成と改め、屋敷内に祖廟を築き、先祖、並びに父母、伯母の御霊を鎮めたという。鞆麿の築いた塚は三朝塚と呼ばれて明治期まで実在したが、その後の土地改良事業で姿を消した。 
             おわり