自分は何と多くの罪なき人々を殺めたことか。越前に侵攻して逃げ惑う一揆衆を掃討、原田直政や明智光秀らと競い合うように、女子供に至るまで多くの者たちの首を無残にも刎ねた。上月城陥落の際、秀吉の命ずるままに降将たちの首を刎ね、見せしめのために、婦女子二百人を磔、子供は無慈悲にも串刺しにした。兄が太田城に使いした時、兄の兵五十余人が討ち取られたのを、報復として、開城の際、同数の降将の首を刎ね、女房二十三人を磔にした。枚挙に暇ないほどの残虐行為を繰り返してきたものである。
 岩肌を波打つ波瀬川の清流は己の罪穢れを洗い清め、流し去るとともに、人の心を再び蘇らせてくれるようであった。孫八郎は手にかけた無垢の民の冥福を川中の大岩に祈った。
 その日から孫八郎はこの地に住み着くようになった。しかし、自分が東軍にあってただ一人負戦(まけいくさ)の憂き目にあい、身を引いた武将であることは終生隠し続けている。
 何が孫八郎をこの地に導いたのか知る術もないが、人生の晩年において、すべてをなげうってこの地に落ち来った者には、戦いに死んでいった人々の御霊を鎮めることが生きることの目的であったに違いない。それはまた、波瀬川の大岩に、乱世に倦み疲れた己が心を鎮め癒そうとする行為でもあった。