多くの将兵を失った上、秀忠の着陣遅れに苛立つ家康にしこたま叱責されることになった一榮は、妹婿で駿河田中城主(藤枝市)横田内膳村詮に陣代としての権限を委譲した。中村勢は本戦では、池田輝政、山内一豊、有馬氏豊らの隊に合流し、毛利の押さえとして南宮山の麓に布陣している。
 戦いが終わると、一榮は責任を取り慶久寺(沼津)にて逆修の仏事を行い、法名を満祥寺殿大岳周碵大居士と号して隠居を申し出た。

 十月十五日、家康は東軍諸将の論功行賞を行った。中部日本に居城した秀吉子飼いの勇将らは石高を増やされ、名誉を与えられて、九州、山陰、四国へ追われた。例外は池田輝政の播磨姫路城五十二万石ぐらいのものであった。
この日の論功行賞で家康は中村一学の後見人に横田村詮を指名し、一学に伯耆米子十七万五千石を与えた。家康が一氏の功績を評価したためである。
しかし、三年後、横田は讒言を信じた一学に惨殺された。また、一学自身も慶長十四年、二十歳若さで急死して、外様大名中村家は無嗣断家になった。歌舞伎の中村勘三郎家は一政の三男右近重友(蜂須賀家付家老)の末裔といわれている。