翌二十六日は沼津に到着して中村一榮の饗応を受け、三島に宿泊した。一榮は家康の接待が済むと、兄の約束通り戦備を整え、一学とともに家康の後を追った。中村一氏は一榮・一学らが江戸在陣中の七月十七日、駿府城で病没してしまう。
 九月一日、家康は三万の兵を率いて出陣、十四日に美濃赤坂に到着した。この日、中村一榮は兄の本隊四千三百五十を率いて杭瀬川の西、岡山の東南、東牧野に布陣していた。
 その眼前に突如、西軍五百騎が現れて、攻撃を仕掛けた。家康着陣の報に動揺する大坂方兵士を落ち着かせる目的で石田三成家臣島左近が蒲生郷舎と組んで仕掛けたのだ。島左近に率いられた五百騎は、杭瀬川を渡り、一榮隊の前で苅田をし、さらに、東軍陣所近くに放火して挑発する。これに誘い出された一榮は柵を開き、伏兵が潜むのも知らず深追いして退路を絶たれてしまった。
苦戦する一榮勢を見た東軍有馬豊氏が、直ちに救援に駆けつけたが、迂回して来た西軍明石全登の部隊に集中射撃を受けることになって、これもまた苦境に陥った。
 岡山の陣所からこの戦いを望見していた家康は、一榮が左近の計略にまんまとはめられたことを知り激怒する。
「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」
 この戦いで一榮(孫八郎)は、兄の家老野一色頼母助義はじめ大将首九十二、雑兵首百五十四を失ってしまった。本戦の前に陣代一榮は大きく躓(つまづ)くことになる。小戦ながらこの戦いが関が原戦における西軍の唯一の勝ち戦になった。