「……? どーした?」


深海絢に話しかけられてからも、思わずあたしは彼をジロジロと見てしまっていた。


「おーい? 京子?」


「……あんた、会社員じゃないの…?」


あたしは、コイツに2回目に会った時、名刺を受け取った。


そこには確かにコイツの名前があった。


なのに今目の前に深海絢がバーの制服を着て立っている。



「会社は今日はない。 コレ、バイトだら」


そう言って、深海絢は自分の着ているバーの制服を親指と人差し指でつまむ。


「俺、会社じゃ基本雑用だから。 週休二日制だし。 他にバイトしなきゃ金ねーんだ」


そう言って残念そうに肩を落とす。



「あ、そうそう。 で? 今日は何? どうかしたの?」


そう言われて自分が何をしにここに来たのかを思い出した。



「あっそう! 手帳! あたしの手帳知らない?」








「手帳?」


「うん。 ピンクの花柄のなんだけど」


「あーもしかして…」


そう言いながら、深海絢はカウンターの下のところをゴソゴソとあさりだした。



「コレか?」


その手にあったものは、あたしが去年の暮れに確かに夏樹からもらった手帳だった。


「そう! それー!」


あたしはやっと手帳を見つけられて、嬉しくなって深海絢の手に飛びつこうとした。





が。


その手帳を持った手は、ひょいとさらに上に上げられ


元々背の低いあたしには到底届かない高さになった。


そして手に飛びつこうとしたあたしは、その手が上に上げられたことによって


思い切りカウンターに頭をぶつけた。







「…っ痛……」


額をさすりながら顔を上げる。


「返してほしい?」


あたしの頭上にあるのは、ニヤニヤと楽しそうに笑う深海絢の顔。


「っていうかあたしの! 拾ってくれてありがと! だから返して!」


もう一度手帳に向かって手を伸ばす。



が、またあたしの手は空を掴んだ。


「ただじゃあ……ねぇ」


まだ不敵な笑いを浮かべている深海絢は、手帳をカウンターの下に戻してしまった。


「ちょっとぉ! 返してよ! それ、大切な物なんだから!」


深海絢は「まあまあ」とあたしをなだめると、あたしの目の前にフルーツの盛り合わせを置いた。


「……バカにしてんの?」


好きな食べ物で誘惑しているんだと思って腹が立ち、思わず声を荒げた。


そんなあたしの顔の前に、深海絢は一本の指を差し出した。




「条件。 1つだけ、条件がある」







「ていうか、まず京子って呼ぶのやめてよね、深海絢」


あたしの腕を掴んでグイグイと引っ張る深海絢を睨みあげた。


「じゃあ深海絢ってやめてよね、夏実ちゃん」


あたしの口癖をまねするようにたしのあとに繰り返す。


「…じゃあ何て呼べばいーのよ」


「絢でいいんじゃね? みんなそうだし」


「じゃあ絢って呼ぶから夏実って呼んで」


あたしが嫌々そう言うと、絢は満足そうにあたしの腕を掴みなおした。


「なんか俺ら、恋人同士みたいだねー♪」


「ヤメテよ、あたしには夏樹がいるんだってば。 知ってるでしょ?」


あたしは掴まれた手を無理やりほどいた。


「なー、なー。 俺にしとけばっ?」


あまりにもノリが軽すぎて、一瞬何を言っているのか分からなかった。



「……はぁっ!?」







「ねぇ、待って」


「んー? 何ー? ヤル気にでもなった?」


絢はおどけた様子であたしを抱き締めようとした。


「そうじゃなくって!」


あたしはまたその手を無理やりほどく。


「何だよ、何ピリピリしてんの?」


「ねぇ」


今度はあたしが絢の腕を掴んで立ち止まらせた。


「やめてよ」


「何を?」


「だから、そういうつもりであたしを連れ出して来たんなら」


「そういうつもりって? どんな?」


「分かってるでしょ?」


とぼけ続ける絢にだんだんとイライラしてきた。


「あたしは、夏樹が好きだよ…」


あたしは絢の目をまっすぐ見て言った。







「うん。 知ってるけど?」


絢は当たり前じゃん、という風に肩をすくめた。


「……はぁ? じゃあなんで?」


「彼氏いる女の子ってフェロモンスゴいじゃん? だから落としちゃうんだよね」



……意味が分からん。


しかも『落としたくなっちゃうんだよね』とかじゃなくて


『落としちゃうんだよね』って……


そーとー自信あるんだ。


あたしはなぜか背中に悪寒が走ったのを感じて、ブルッと身震いした。


「京子ちゃんも、彼氏いるもんね? 夏樹クンだっけ? だからますます燃えちゃって」


何言ってんだよ、会社員が。


あたしは呆れて言葉を失った。


ただそこで立ち止まっていた。


でもだんだん、悔しくなって、バカらしくなって。


「あたしをこれ以上悪者にしないでよ…」


気付けばあたしはそこで立ったまま泣いていた。









そんなあたしの肩を、絢はそっと抱き寄せた。


抵抗する気にもなれなかった。


足の力が抜けて、立ってるだけでも大変だったから、あたしは絢に身を任せてた。



「……夏…実…?」



その時後ろから聞こえた声に、反応せずにはいられなかった。


しばらく聞いていなくても、忘れられずはずがなかったから。


あぁ。


何日ぶりだろう。


あたしは他の男に肩を抱かれながら、そんな事を考えていた。


だって、どう考えても現実味がない。


なさすぎる。


あ、そうだ。


あたしが嘘をついた日以来だ。


こんなにもいとおしい声で名前を呼ばれるなんて、なんて心温まる幸せなんだろう。


「夏実……」


もう一度呼ばれた失望の声にあたしは顔を上げた。


まだ涙は止まっていなかった。



「…夏樹……」







夏樹の顔を見た瞬間、また涙がぶわっと溢れて、夏樹を取り巻く世界が一気に歪んだ。


「夏樹ぃ……」


きっとそれは、絢といた罪悪感とか久しぶりに夏樹に会えた嬉しさとか


そんな色々な感情が混ざってたと思う。


「てめー何してんだよ……」


そんな夏樹の声に、現実に戻されたような感覚が生まれた。


「違っ……あたし…っ」


『ごめん』なんて言葉を出したらそれこそ終わりだと思い、あたしは涙ながらに訴えた。


「夏実に聞いてんじゃねー。 てめーだ!」


その瞬間、夏樹が絢に飛びかかったのが分かった。


夏樹が拳を上げた風が顔にあたる。


――ヤバイ。


頭は朦朧としていたけど、瞬時にそう悟った。


だいたい、こんなに夏樹が大声出した事なんて今までなかった。


ましてや、手をあげるなんて。


あたしは力の限り叫んだ。



「やめてーっ!!」






ボゴッというか、ドス、みたいな


そんな音が耳に響いた。


絢が殴られた瞬間に、なんであたしはこんなに近くにいて目を開けていられたのか


よく分からない。


バカみたいだけど、『こんな近くで人が殴られるのなんてもう見れない』、とか


あたしのことだから思っちゃったかもしれない。


涙でメイクがぼろぼろのあたしと、口から血を流している絢の視線が一瞬絡まった。


でもあたしはそれを無視して、また絢を殴りにかかろうとする夏樹にしがみついた。


「夏樹ッッ! この人悪くないから!」


悪くない、なんて自分で口に出して、その言葉の軽さに笑ってしまいそうになった。


その言葉を聞いた夏樹が手を止め、ゆっくりあたしを見た。


「なぁ、夏実……?」


「なっ…何…?」


「俺…本当にお前の事信じていいか、分かんねぇよ……」