「……だめ」
 後ろからの声。彼はダンディーな自らのジャケットに手を伸ばしている最中だった。彼は振り向いて彼女を見る。
「だめ」
 彼女は震えていた。まるで、迷子になり冬の寒さを真正面から受け続ける子猫のように。
「……タマ。風邪は薬を飲まなければよくはならないんだ。そのくらいのこと、僕にだって分かってるつもりだよ。すぐに帰ってくるから。ね?」
「やだ」
「……タマ」
 彼女は俯きながら彼の前に歩いていくと、腕を両手で掴んだ。
「行っちゃだめ。私なら平気。ご飯作るね! ガクは本当に料理が下手なんだから全く……ゴホッ! ゴホッ!」
 咳込む。
 嫌な咳だ。咳にも苦しい咳と苦しくない咳のニ通りがあるが、それは間違いなく前者の方だった。
「タマッ! 大丈夫?」
「うん……だいじょ……ゴホッ!」
 堪らずしゃがみ込む。彼は彼女の背中を摩ってやった。咳が室内に響く。耳に残ってやまない反響音が、痛烈に彼の胸を貫く。否応なしに。
「タマ……。ベッドに行こう。寝てなきゃ駄目だ。ほら……」
「やだ……。寝てたらいっちゃうもん。絶対いっちゃうもん……」
「十分で帰ってくるよ、タマ。薬を飲まなければ絶対駄目だよ? それか病院に行く? 急げばまだ大丈夫だよね?」
「病院も嫌。絶対嫌。ガクが出掛けるのなら、私もついてく。……やだもん」
 彼は頭を掻いた。彼女の大きな瞳に大粒の涙が溜まっていたのだ。そして、重力に逆らえなくなったそれは、床にぽたっぽたっと落ちる。
 それは、彼に海戦に於いて老獪な昔の撃墜王が新しい才能の台頭によって大海原に撃ち落とされていくような、何ともいえない摂理を連想させた。
 しかし、彼女の決意は、誰にも撃ち落とせやしないだろう。そんな気がした。