ただ、それを此処で言うつもり等毛頭ない。
 彼は、化粧の崩れてしまった彼女の瞳を持ち前のダンディーなそれで拭いてやる。
 ……うん。とても綺麗だ。
 彼女の瞳は漆黒のブラックオパール。どこか妖艶な輝きを持ったそれに彼はいくばくかの蟠りを覚えた。それは愛苦しく、そして儚すぎた。
 彼は殆ど泣きそうになってしまう。理由は彼女の泣き顔を見ているからでなく、その奥に在る、彼女以外には誰も居なくなってしまった部屋。彼以外には入れなくなってしまった空間を想って、彼は涙が零れそうになるのだ。
〔ふーん。……とばかりだったお前が何処までやれるのか、見といてやるよ……〕
 彼は無理矢理抑制した感情と共に何かの嘲笑う声を聞いた。しかし、何も気には止めない。
 彼は、もう少しで流れてしまうであろうそれを、彼女にしたのと同じ様に拭い、そして、口にする。
「……タマ。一回帰ってまた来よう。タマの新メニューが食べたい……」
 彼がそう囁くと、彼女は震えた唇で「うんっ」と呟く。
 彼は、その唇に自らのそれを押し付けたくなったが、勿論止めておいた。気分が盛り上がるのは構わない。だけれど、やはり。
 彼女が、漠然とだがそれを望んでいない様な気がして。
 彼等は寄り添いながら帰路を歩く。
 繋いだ手は離れない。
 彼等は通りゆく人だかりを気にも止めず、ひたすら前に歩を進めた。
 沢山の人が、目を真っ赤に腫らしている二人に奇妙な視線を送ったが、彼等にはその影すらどこか虚ろ。
 それは、まるで一人の人間みたいに寄り添って、賑やかなそれに背を向けて歩いていった。