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 過去その六
 彼は、自分の身体に驚愕しつつも、家路を急いだ。駅のホームで買ったあんパンは、二口食べたところで気持ちが悪くなり、彼の横でちょこんと出番を待ち侘びていたが、それが口に運ばれることは二度となかった。彼は電車の揺れでさえ催しそうになったが、口を真一文字に結び、必死に堪える。走っていく風景を横目で見ると、それは出鱈目な風景に見えた。
 彼は思い立ったように手の甲を左の利き腕で叩き、そして力の限り抓った。そうする事で少しは意識が保てるようにはなったが、吐き気は一行に収まらない。
 ……アンパンなんて食べなければ良かった。
 しかし、今言っても仕様がない。薄れいく意識を、痛みだけで繋ぎ止める。彼にはたったの三駅が東京―大阪間の鈍行列車の距離かの様に感じられる。
 しかし、どんなに遠くてもいつかは着くもの、彼は地元の、幾分時代に取り残された感のある駅に着いた。
 そして、ホームから構内へ、実に十分の時間を掛けて上り、目に留まった緑色のそれで実家に電話をする。
 四コール目にやっと受話器を取る音。
『はい、高宮でございます』
「……かあさん、……ぼく……」
『……がっくん!? 今何処に居るの? 何処に行ってたの?』 
「……い、今ね、駅のホームに居て、む、むかえ……ガッ!」
『……何今の音? 楽人? 返事しなさい! がくとぉーーーッ!!!』
 彼は倒れた。微かに聞こえた最後の声は、母親の慟哭にも似た叫び。
 ただそれだけが耳に残って離れなかった。