ふと薫る香り。金木犀の木でも近くにあるのだろう。……甘い。
 彼が、漠然と考えていると、眼前の角から一人の白髪がかった初老の婦人が、唐突に姿を表した。大量の買い物袋を引っ提げて。
 ……あんなに持っていて大丈夫なんだろうか? 彼は頭が働かず、何とも浅い思いを浮かべていると、「あっ! おばさま!」彼女がいきなり、素っ頓狂なその声を張り上げた。
「うわっ! 声がでかいよ……」
 彼が耳を塞ぐような真似をするのにも目を暮れず、彼女は、その婦人の元に寄っていく。
「あらーっ! 珠美ちゃんじゃない! 久し振りねぇ。……元気してたかしら?」
「……うん! 元気だよぅ! おばさまも変わらないね! こんなにまた買い物袋持っちゃって」
「今日はね、葱と豆腐が安かったのよ! 流石に特売の烏龍茶は重くて三本しか買えなかったけどね……」
 どうやら知り合いらしい。
 彼がその話に聞き耳を立ててみると、何か三間先の家のメイちゃんがだの、近くのスーパーが潰れただの、いわゆる井戸端会議的なものが始まっている。
 そして、婦人の姿を見ていると、不意にそのオバサマと目が合った。
「あらー! 珠美ちゃん。かわいい彼氏ねー! 年下かしら? 貴方、何歳? 何処に住んでるの? 珠美ちゃん泣かしたら承知しないわよ? あらー! それならもう一回……」
「おばさま?」
「スーパーに行ってお肉も買って……」
「おばさま!!!」
 彼女が急にまるで裁きの雷の様なそれを放った為、婦人は我が返ったかのように静かになった。
 ……成る程。彼は初めて彼女の波動とも言えなくもない声が役に立った所を見る。そんなどうでもいい感想を、頭の脳内に書き込もうとした所で彼女は言葉を続けた。
「……コホン! おばさま、こちらは高宮楽人君。彼氏では無いけど、すっごい仲良しなんだから! それでね、御飯を招待していただけるのは有り難いんだけど、今日は用事があって……ねえガク? そうでしょ?」
 ……予定?
 彼はそれについて何一つ思い出せそうになかったが、取り敢えず「うんうん」、と頷いておいた。
「あらー! そうなの? それは残念ね……。あらやだ、もうこんな時間じゃない! 早く準備しないとお父さんに怒られちゃうわ! けど……、何か言いたい事があったのよね? 何だったかしら?」