「ごめんね……、もう大丈夫だから……」
 彼女はそう言うと洗面台の方へ歩いていく。泣き腫らした瞳は、密かに揺れ動いていた。
 ……焦点が定まってない、そう感じた彼は、沈黙を維持しながらも彼女の後ろを付いていく。
 リビングから洗面所への、ふたつの扉を開け、彼女は鏡の前で立ち止まると、その中に映った彼に話しかけた。
「えへへ……、泣いちゃったよ。何でだろう? なんか色々思い出しちゃって。びっくりしたでしょう?」
 彼女の右手にはぬいぐるみが手を繋ぐようにぶら下がっていた。
「そんな事は無いよ?」と彼は短く彼女に告げると、頭を軽く撫でてみる。
 そして、次に肩に手を置き、最後に彼女の左手を握った。
 彼女はその一連の動きに驚き、ぬいぐるみと彼の右手をキョロキョロと見ていたが、その瞳は光を何処かから奪還してきていた。
「妹がいたらこんな感じかな?」
 彼は少し安心して彼女の耳に囁くように言う。
 それは、彼なりの冗談。
「もう……ばか……」
 彼女は、一瞬目を見開いて怒ったそぶりを見せたが、その後彼に自重しながらも笑顔を見せてくれた。
 彼はその笑顔にとても満足して、ふとぬいぐるみに焦点を合わせると、「君もそうかな?」、と尋ねる。毛糸の身体のそれもどうやら満足してくれた様。
 何故なら、彼にはぬいぐるみがコクッと頷いたように見えたのだ。