「……とこと、……げたくせに」
 彼女の声だ。
「逃げた癖にぃぃいいっ!」
 怒号のような叫びと共に、ふと、彼の中にひとつの波紋。
 ……逃げた? 逃げるとはなんだ。



〔……待ってたんだ〕
 聞こえる。彼の後ろから、例の声が聞こえる。まるで、この時を待っていたかのように。
〔逃げることは駄目なんだ。何回いったら分かるのか心配してたんだ〕
 彼は、恐る恐る振り向く。両腕には、まだ彼女の温かみ。
 勿論だが、誰も存在していない。
〔僕はここだよ。どうやら、やっとだ。これで君と少し話が出来るかも知れない。君は、忘れているんだ。今夜さ〕
 響いているのは、脳内。気づけば腕の温かみは、消えている。
 目に映る画面が、少しずつぼやけ、明確なものが何ひとつ残らなくなっていく。
 青、そして、最後に彼の目を捉えたのは、限りなく透明に近い白であった。
 崩れ去る彼。
 異変に気付いた様子の彼女が声を掛ける。しかし、彼には、もうその時、別の場所に向かわざるを得なかった。誘われるがままに。