とうとう目の前まで来て、思いとどまらないよう努力しながら線路の上へと歩幅を広げて踏み出した。
目をつぶって歩こうか、なんて考える。
が、それを実行することは叶わなかった。

ほんの一瞬。

蒸し暑い空気を押しのけて、ひんやりとした温度が身体のそばを横切ると、蝉の声にかき消されてしまいそうな声が届いた。

『夜に…』
この場所で逢いましょう。

無意識に聞くことを拒んだが、耳からではなく、皮膚の全てに聞こえるような感覚に襲われる。
瞳孔が極限まで開いた。
身体中の血液が逆上する。
毛穴のすべてから暑さででるようなものとは全く違った汗が体外へと放たれたような気がした。
線路の上で一時だけ足が地を離れなかったが、また吐息のような声がきこえた次の瞬間には、自分の身体ではないようにコントロールがきかななくなったように、足取りが整わないまま踏切から抜け出していた。
まるでその踏切だけが異空間だったかのように、一歩出るとまた夏の暑さが身体中を取り囲んだことに気付き、息を呑む。

『貴方が来るのを待ってる』

昨夜の彼女だ、なんの根拠もなかったがそう確信した。
振り返ろうとして、躊躇する。
言い訳なんてない、ただ一心に恐れていた。

なのになぜか後ろ髪を惹かれる思いなのだ。
透けた身体越しに見えた情景より、どこか泣き出しそうだった彼女の横顔のほうが頭から離れない。

ぎゅっと、硬く拳を握り、結局一度も振り返ることが出来ないまま家路を急いだ。
その声を、その表情を、昨日の記憶そのものを消し去ってしまいたい一心で、足早に見慣れた景色を横切っていく。

どうして。
どうして自分を待っていると言ったのだろう。
どうしてあの場所で逢おうと告げたのだろう。

どうして?
どんな想いで?

なんど問うても答えなんて分からなかった。