好きだから、別れよう。



「…大丈夫?」


彼は私の肩を掴んだまま言った。

耳元で聞く、優しい彼の声。



私は痴漢の恐怖から開放されて安心したのと、

彼が私を助け出してくれたことが嬉しくて、

満員電車の中でボロボロ泣いた。



彼はそんな私の肩から手を離すと、

吊り革を掴まず、



私の頭を優しく撫でてくれた。







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「次はー〇〇駅。〇〇駅に到着でーす。」


車内にアナウンスが流れると、彼は私を撫でる手を止めて、


「その制服、〇〇高校でしょ?ここで降りるんだよね?」

と、私の顔を見た。

「えっ?あっ、は、はい」

ハッと我に返って彼を見ると、彼は私の肩を叩いて、

「俺が先に降りるから、俺の後ろにピッタリついてきて。」

と言い、混雑した人波を交わしながら、彼はホームへ向かって移動し始めた。


彼が通った後ろをピッタリついていくと、

人波の間に彼によって切り開かれた道があって、

私はすんなりとホームに降り立つことができた。







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「あ…あの…。助けていただいて、ありがとうございました!」


一緒にホームまで降りてくれた彼に、私は一生懸命頭を下げた。

伝えきれないくらいの感謝を、どう伝えたらいいかわからなくて…。



彼はそんな私を見て、クスッと笑うと、

私のおでこにデコピンをした。


「いたっ」


「次からは、ちゃんと女性専用車両に乗ること。

通勤ラッシュんときは、あーゆうの多いから。

いい?約束。」


彼は、私をデコピンした右手を翻して、私に小指を差し出した。


「ホラ、約束。」


催促されて、私もゆっくりと右手の小指を差し出す。


私の小指と彼の小指が絡まって、


私の心臓、小指にあるんじゃないかってくらい、

ドキドキ

ドキドキ

震えてた。







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しばらくして、電車の発車のメロディーが鳴り始めた。


「あっ、ヤバイ。俺、乗らなきゃ」


慌てて電車に乗り込もうとした彼に、電車の中から声がした。


「おーい!マサキ!なにやってんだよ、電車出ちまうぞ〜!」


その声の男性は彼の上司のようで、彼は男性に軽く頭を下げながら、電車に乗り込んでいった。



マサキ…さん。



心の中で呟きながら、いつものように彼の乗った電車を見送る。




ただ、いつもと違っていたことが、ひとつ。

それは…





いつもは私に背を向けている彼が、



今日は私を見て、


「約束、ちゃんと守れよ」


と、


右手の小指を立てて、私に笑っていたんだ――。









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第二章

〜サイン〜



昨日は、嬉しいことがいっぱいあった。



いつも隣の車両から見ていただけの彼と、同じ車両に乗れたこと。


痴漢されていた私に気付いて、抱き寄せて助けてくれたこと。


私のために、わざわざホームまで降りてくれたこと。


デコピンして、ちゃんと私を叱ってくれたこと。


それから…




『マサキ』さん。


彼の名前を、知れたこと。







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昨日から私は、ずーっと同じことを考えっぱなしなんだ。


昨日初めて知った、彼の名前。

『マサキ』さん。



『マサキ』って、どういう字を書くんだろ?



一番一般的なのは…

『正樹』かな?


それとも、嵐の相葉君みたいに…

『雅紀』だったりして?


でも、彼のイメージからすると、

『真生』

とかありそうだなぁ。人に優しく、真っ直ぐに生きていくイメージ。



それとも、

『雅樹』?

『政喜』??

『正紀』???





想像と妄想でいっぱいになってる私を、電車の発車のメロディーが現実に引き戻した。


「うわっ!ヤバイ!!」


ケータイを見ると、もう既に7時32分。


私は階段を一気に駆け上がり、最後尾の女性専用車両に駆け込み乗車した。






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私が乗り込んだと同時に扉が閉まり、電車はゆっくりと走り出した。


…ふぅ、間一髪…。


荒くなっている呼吸を整えながら、いつもの席に座ると、彼の…マサキさんの姿が見えた。


隣の車両で今日も立っている、マサキさん。


それを私は女性専用車両のいつもの席から見つめてる。


こっち、向かないかなぁ。
見てくれないかなぁ。



私が『こっち向いてよオーラ』を出し始めてしばらくすると、


ふとマサキさんがこちらに目を向けた。




…あ。

目が合った。







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私の心臓が高鳴るのがわかって、

私は無意識に目を逸らしてしまった。



…あぁっ!
私のバカ!!
せっかく目が合ったのに!!!



ドキドキしながら、もう一度ゆっくりとマサキさんの方を見てみる。




…あ。

マサキさん、まだこっちを見ていてくれてた。




私は手足が震えるくらいのドキドキを隠しながら、マサキさんに頭を下げた。



『昨日は、本当にありがとうございました!』



隣の車両の彼は、私の無言の仕草の意味を感じ取ったようで、


私に見えるように、右手の小指を立てて微笑んだ。






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