桜、ふわふわ ~キミからの I LOVE YOU~

――カチン

ひときわ大きく、ライターの蓋が閉じられた音が響いた。


イッペー君は、スーっと肩で一つ深呼吸する。


何か言われるんだ。

そう思った瞬間、あたしは立ち上がっていた。


「帰る……」


声が震える。

返事を聞くのが怖かった。


例え国語の答えがたくさんあったとしても、イッペー君からの返事はたった1つだってわかりきっていたから。


鞄を手にして、立ち去ろうとしたその時……



――ガタンッ

「サクラっ」

イッペー君が立ち上がる音と、あたしを呼ぶ声が同時に響いた。


「きゃっ」


手首に痛みを感じる。

見れば、イッペー君にがっちりとつかまれている。


「先生は……ずるい」


口から漏れたのはそんな言葉だった。

ずっと触れたかったイッペー君の指。

その指の熱を手首が感じる。

その力があまりにも強くて。


――こんな形であたしを捕らえないで。


だって……溶けてしまう。

あたしの体も心も。


さっきからずっと我慢していた涙腺も。


「ひどいよ……先生が……言わせたんじゃん? そういう風に話、持っていったじゃん」


「うん……」


イッペー君は力をなくしたみたいに、あたしの手首を解放した。


「ごめん……」



何のごめん?

話を誘導したことに対する“ごめん”?


それともあたしの気持ちに応えられないから“ごめん”?


どちらにしても。


その言葉はあたしの心をひどく傷つけた。


「先生の……バカ……」


教室を飛び出した。


その後のことはよく覚えていない。

どうやって家にたどりついたのかも。


よく我慢できたなって思うけど、

帰り道、一滴の涙すらこぼさなかった。


だけど、自分の部屋に入ったとたん、崩れるように床に座って……。


それからずっと泣き続けた。


言わなきゃよかった。


ずっと片思いでも良かった。


上手くいかない恋だってことはこの気持ちに気づいた瞬間からわかってたもん。


最初から見返りなんて求めてなかった。


誰にも知られずに、胸の中に芽生えた想いをただ大事にしたかった。


勝手に好きでいたかった。


それだけだったの。



“ごめん”なんて……聞きたくなかった。


そんな言葉で、あたしの気持ち

終わらせないで。


翌日の気分は最悪だった。


耳障りなセミの声にもイライラするし。


それでも足を動かす。

朝の日差しを反射するアスファルトを恨めしげに眺めた。

この先にあるのは学校。


補講……行きたくないな……。


どんな顔して会えばいいんだろう。


イッペー君の困ったような顔を想像しては、何度もため息が出た。



授業が始まる直前に教室に到着した。


昨日はあたしより早く来ていたイッペー君。

だけど今日はまだその姿はなかった。



とりあえず、席につく。


静かな部屋に壁掛け時計の秒針の音が響く。

それに呼応するように、自分の鼓動を感じる。


夏だというのに、

握りしめた指先が氷みたいに冷たい。



――ドクン、ドクン


3分……

5分……10分……経っても



イッペー君は現れなかった。







ひょっとして、避けられた?



「はは……何それ……」


あたしだって逃げ出したい衝動を必死で抑えて来たというのに。

やっぱり帰ろうかって、来る途中何度も引き返そうとした。


それでもやって来た理由はたった1つ。


今日顔を合わさなかったら、きっと気まずくなるから。


あたしは生徒でイッペー君は先生。

これからだって嫌でも関わらなきゃいけない。


ここで逃げても何の解決にもならない……そう思ったから。


われながら立派な判断だと思う。


あたしって大人じゃん!

なんて思っていたのに……。


「あいつぅ……」


大人のくせにっ。

いくら迷惑だからって、逃げるなんて卑怯すぎるよ。


「イッペーのアホぉ……」


昨日からずっと緩みっぱなしだった涙腺。

じわぁ……って目の縁が熱くなる。

油断したら、また涙が零れそうになった。


「ああっ。もぉ……」


立ち上がって、ふらふらと教室の一番後ろまでいく。


壁に背中をもたれさせて、ずるずるとそのまま床に座った。


両手で膝を抱える。

――よし。泣く準備は整った。


顔を膝に埋めようとしたその時……。



――ガラッ


「ごめんっ。サクラ! 寝坊した!」
ドアが開くと同時に聞こえてきたのは、イッペー君の声。


はぁはぁと息を切らしながら、あたしの席に向かう。


「あれ? サクラ?」


教科書やノートは机の上に広げてある。

それなのにあたしの姿がないから、不思議に思ったのか、キョロキョロしてる。

しまいには、机の下や中まで覗いてる。


ドラえもんじゃあるまいし。

そんなとこにいるわけないじゃん。

やっぱイッペー君て時々、おバカ。



「先生、あたし、ここだよ」


教室の隅っこから声をかけると、イッペー君は肩をビクンとさせて振り返った。


「うわあ! びびった! そんなとこにおったんか! お前、気配消すの上手いなぁ……。忍者?」


笑えない冗談を言いながら近づいてくる。



ペッタンペッタンと聞こえてくるのは、サンダルの音?


いつもはオシャレには気を使ってます……って感じの服装なのに。


よっぽど急いできたのかな……。

今日は白いTシャツにくたくたのダメージジーンズを腰履き。

セットされていない洗いざらしの髪をかきあげ、ストンとあたしの横に腰を下ろした。

こんなワイルドな感じもなんだか新鮮で、不覚にもまたドキドキしてしまう。


「ほんま、ごめんな~。や、もう、焦った焦った! 起きたら9時やし」


「サイテー……」


「や、ほんまごめん……」


イッペー君の言葉はそこで止まった。

驚いたような顔をしている。


きっと、あたしの涙に気づいたから。


「も……来ないのかと思った……。あたし……このまま避けられちゃうのかと思った……ック……」


ズズって鼻をすすって、涙をぬぐうと、慌ててイッペー君とは反対の方に顔を向けた。

きっと今ブス顔だから。

一晩泣き続けて、目なんてメイクでは修復不可能なぐらい腫れぼったいし。


「あー……ごめんな」


そしてもう一度謝るイッペー君。


「許さない」


プゥっと頬を膨らませたその瞬間。



――ピトッ

「ひやあああ」


ヒヤリとあたしの頬に冷たいものが当たった。


思わず振り返る。


目の前でゆらゆら揺れているもの。

イッペー君がアイスキャンディーの袋を指でつまんでプラプラさせていた。


「ほんまごめんって! これで機嫌直してって! な、サクラん!」