「ああ」と呟いてから、イッペー君はなぜかちょっと楽しそうに目を細める。
「国語嫌いなヤツってみんな同じこと言うなぁって思って。で、数学とか物理嫌いなヤツは『こんなこと勉強して社会で役に立つことあるんか!』って文句言うやろ」
「うーん。たしかに」
「実際、高校で学んだことが社会に出て直接役に立つかっちゅうたら……まぁ、そうでもないんやろうけど」
「そんなこと先生が言ったら身も蓋もないじゃん」
イッペー君てヘンな教師だ。
「あんなぁ。
ぶっちゃけると、オレらが教えてんのは、受験で使うテクニックや。
作者の気持ちなんて作者にしかわからへんねん。だから、お前らが考えるんは、出題者の意図や。これは、どの教科でも言えることやけど――」
イッペー君は指でトントンとテーブルを叩く。
その指が細くて長くてキレイだなぁ……なんて、あたしはまたちょっとずれたことを考えていた。
「って、おい、聞いてますかー?」
「えっ! あ、うん」
「――だからな。どの教科でも言えることやけど。出題者が望んでる解答を探れ。
これって結構大事やねんで。相手の意図を汲み取って最善の答えを導き出す。これは社会に出ても結構役に立つんちゃうかなぁ……なんて……オレは思っとります」
「ぶっ……最後、なんで敬語?」
「や、なんか語ってる自分が恥ずかしくなった」
そう言って、両手で顔を覆う。
「あ、もう、オレこういうのほんまハズいわ。オレ、絶対、教師とか向いてへんよな」
「うん。先生ってなんか先生らしくない」
「やっぱり?」
片方の眉を上げるイッペー君。
「でもサクラも……意外と……」
口元に手を当てて、肩を揺らせてクックッと笑う。
「そこで止めないでよ。意外と……何?」
そんな言葉で止めないでほしい。
なんか、もやもやってなるじゃない。
「いや、意外と面白いヤツやなぁ……って。もっとクールなんかと思ってたから」
「それよく言われる。中身はグダグダだって」
小さい頃から同級生より年上にみられる大人顔。
今だって、私服だったら普通に大学生ぐらいに見えると思う。
だけど、これは自分でも自覚してることだけど。
中身が外見に伴ってない。
特に恋愛の経験値はゼロに等しい。
男の子とまともに付き合ったことすらないんだ。
そんな風には見えないらしいんだけども。
「グダグダって……」
まだちょっと笑いながらも、イッペー君はそこでようやく“牛乳屋さんのコーヒー(ホット)”を口にした。
「あち……」って顔をしかめながら。
「自分だって猫舌じゃん」
って突っ込むと、今度は「うるさいわ」って子供みたいに拗ねる。
その姿がなんだか可愛くて。
ヘンな先生だけど。
あたしは好きだな……って思った。
この時はまだその好きは先生として好きなんだと思っていた。
まさかイッペー君があたしにとって特別な存在になるなんて、想像すらできなかった。
この時のあたしは、トクトクとうるさい心臓の意味にも気づかないまま……
ただ無邪気に話続けていた。
イッペー君と食堂で話してから1ヶ月ほどが過ぎた。
制服は夏服に変わり、じめじめとした湿気の多い季節がやってきていた。
誰が言い出したのか知らないけれど。
その頃には、誰もがイッペー君を「先生」ではなく「イッペー君」って呼ぶようになってた。
だけど、あたしにはどうしてもそれができなかった。
どうして言えないんだろう。
その答えを探そうとするたび、あたしの胸は無意味にドキドキして。
だから気づかないように、触れないようにと心の奥にしまいこむ。
まだこの気持ちに名前をつけたくはなかった。
だって相手は先生だよ?
こんなの……ありえないよ。
その日、あたしは芙美の部活が終わるの待っていた。
帰りに最近できたカフェでワッフルを食べようって約束をしていたから。
実は明日は芙美の誕生日。
当日は彼氏とデートすると言っていた芙美。
だったら、今日、前祝を二人でやろうって、あたしが誘ったんだ。
芙美はテニス部。
一人で待っててもつまんないから、テニスコートの真正面にある、東校舎の廊下で、練習風景をただぼんやり眺めていた。
東校舎は、北校舎と南校舎を繋ぐ形で建っている。
その昔、まだこの学校に生徒がたくさんいた頃に増築されたらしい。
今は生徒数が減ったためほとんど使用されていない。
特に放課後なんてここを通る人すらいない。
窓の外から聞こえてくるテニス部の掛け声だけが、静かな廊下に反響していた。
――と、その時。
――ガチャ、ガチャン!!
すぐ後ろの教室から、大きな物音が聞こえてきた。
まるでイスや机が倒れでもしたような、そんな音。
そこは空き教室。
こんなところに誰かいるの?
ドアに近づいてみるものの、きっちりと鍵がかかっている。
そりゃそうだよね。
空き教室は生徒が勝手に入らないように、いつも閉じられているから。
ドアの小窓から中を覗いてみるものの、誰の姿も見えなかった。
気のせいだったのかな……。
そう思ってドアから離れようとした時……
「――はぁ……」
誰かのため息?
さらには、カサカサと何かが動いているような音がかすかに聞こえる。
やっぱり、誰かいるんだ。
あたしは教室の後ろ側にあるドアの方に向かった。
こちらのドアは内側からねじ式の鍵をかける仕組みになっている。
ひょっとしたら、こっちは開いているのかもしれない。
ドキドキしながら取っ手に手をかける。
一瞬、戸惑って……それからスッとドアを引いた。
「う~…あ……いてぇ……」
床にうずくまって肘のあたりをさすっている人物と目が合う。
見つめあったまましばらくの沈黙。
「え?」
「……え?」
二人の声が同時に響いた。
なんて間抜けな瞬間。
「あー……うー……え? あれ? サクラ……?」
ぼんやりした目であたしを見つめているその人物は……イッペー君だった。
イッペー君がうずくまっていたのは、廊下側、一番後ろの席のあたり。
あたしがさっき覗いた小窓からは、この場所は死角になる。
だから見えなかったんだ。
状況からさっするに……。
きっとイッペー君はこの席に座って居眠りをしていて……
そして寝ぼけて椅子から転がり落ちたんだな、きっと。
――ぷっ。ドジッ子。
「え? サクラ、どうやって開けた?」
相変わらずぼんやりした目であたしを見つめるイッペー君。
「どうやって……って。鍵開いてたし」
「ああ……そっか」
やっぱ寝ぼけてる。
イッペー君だって、ここから入ったんでしょうが。
あたしは教室の中に入って、床にペタンと座ったまんまのイッペー君を見おろす。
――あ、つむじ発見。
こんな角度からイッペー君を見るのは初めてで、なんか新鮮。
というか、無防備。
「……せんせ……髪、跳ねてる」
そう指摘すると
「あー……マジ?」
イッペー君は、手で髪を押さえるしぐさをする。
だけど、跳ねてるところとは反対側の髪を触ってる。
あー、もぉ。
ほんと手が掛かる先生だなぁ。
「違う違う、こっち!」
あたしは座り込んでイッペー君と目線を合わせると、ピョンと跳ねた髪に触れた。
うわ……イッペー君の髪……触っちゃった。