漆黒の海の上を吹いて来た風が、頬を、優しく撫でて行く。
 トゥクトゥクを急がせている割には、風が緩い。かといって、ドライバーがさぼっているわけでもない。何台も追い抜いていくそのスピードは、胸がすくほどのスリルだし、カーブでは、投げ出されないように、座席にしっかり掴まっていなくてはならないほどだ。そのスピードに乗るかのように、わたしの心臓の鼓動も、次第に加速していく。
 そしてそれは、パトンの街に差し掛かったあたりで、ピークになった。まるで、全身が心臓になったみたいに、熱を持って、体中がドクドクと脈打っている。
 街中に入ると、そこは、退廃的な空気が、まさに飽和状態になっていた。オープンエア・バーの灯りが、道ばたにまで、溢れんばかりの輝きを放っている。そして、それにつられて出て来たかのように、大勢の人が、車道まではみ出していた。
「ジョート・ティニー!」(ここで停まって!)
 と、ドライバーに何とか声を掛けて、あのレストラン、gardensの前で、停めてもらった。
 交渉しておいた、急ぐ分を割り増しした額を支払って、降り立った瞬間、思わず目眩で倒れそうになる。いきなり、ここへきて、自分がどうしてここに居るのか、分からなくなってきてしまったのだ。
 現実感というものが、欠けている。
 ついさっきまで、ホテルのプールサイドに居たのだ。
 そこから、ロビーを通って、鍵を預け、トゥクトゥクを拾った、その間の記憶が曖昧になっている。きちんと、鍵を預けただろうか。急に、そのことが気がかりになってきてもいる。そっと、ポケットに手を滑り込ませて、鍵が入っていない事を確かめた。
 入って……ない。
 入っているのは、お金が少し。それだけ。