秀頼は太閤の実子ではなかった。太閤の命を受けた三成が淀の方に世継ぎを産ませるために、大野治長に密通させ、その結果できた子供であった。秀頼の母である淀の方は織田信長の姪にあたり、太閤の後継者に織田家の血筋を引き継ぐ者がなれば、大名たちは平伏すだろうと考え、また信長を崇拝していた太閤は織田家の血筋にこだわった。秀頼誕生により、太閤の数多くの養子たちは疎外され、関白職を引き継いでいた豊臣秀次は太閤の姉の子供にも関わらず、自害に追い込まれていた。太閤と三成の深い関係を知る秀次は、体を張って成り上がった三成を軽蔑し敵視していた。そのため、秀次は三成を追い落とそうと画策して、それにより謀反の容疑をかけられ、失脚したのであった。秀頼誕生の秘め事を共有していた三成と太閤の結び付きはより強固となっていった。それが結果としてますます他の者の反感を生むことになった。太閤と三成の談合も終盤を迎えた。秀頼が成人するまでは決して動くな、内府が動いても動くなと太閤。太閤の声は弱々しく聞き取りづらいが、三成は黙ってうなづいた。それからしばらくして、太閤の正室である北政所が訪れた。三成、これよりは私が太閤殿下を看病する そなたは下がれと北政所。太閤が言う、三成でよい そなたが下がれと。険悪なムードとなる。北政所と太閤は表面的な夫婦であった。北政所は豊臣家繁栄の功労者の一人として、長年太閤を影ながら支え、その影響力が大きく、太閤とて頭が上がらなかった。男色家の太閤に何も言わず長年付き添ったのは、太閤の母、今は亡き大政所に説得され続けてのことであった。太閤殿下、お加減はいかがですかと北政所。太閤が言う、もう眠ると。太閤は北政所と話をするのが苦手であった。そのため、いつも話を避け、逃げていた。太閤は北政所に後ろめたさが常にあったためであろう。三成もまた同じで北政所が苦手であった。三成を見つめる北政所の目は、穏やかさの中にも殺気があった。太閤が眠っているのを確認した北政所は三成に話かける。太閤殿下とはこれまで長きにわたり付き添ってきたが、最期まで、分かり合うことはなかったと。そう言い放ち、北政所は去って行った。三成は唖然とし、看病疲れのため思考能力は完全に低下していたが、北政所の言葉にこの上ない悪意を感じていた。三成は太閤に声をかけるも返事がない。太閤は深い眠りにつき、夜は更けて行った