オプニカで腕を切った娘の母親は、外からきた人間だった。

日本人ではなかった。

目は緑で髪は赤く、日本語があまりしゃべれなかった。

顔中にそばかすが散っていて、それが踊っているようにみえるくらい、いつもにこにこ笑っている人だった。

よく家に遊びに来ていたから、覚えている。

どういう出会いで薬師の従兄弟といっしょになったのかは、詳しくしらないけれど、たぶん、新しい物好きの薬師の従兄弟が、イギリスだったかアイルランドだったかに旅行したときに知り合ったのだろうと、みんながいっていた。

俺は物心ついた頃には、その人はすでに母さんの親友と言われていたから、すくなくても10年ほどは、‘ここらへん’に住んでいたのだろう。

母さんと英語で話して笑うたびに、まるで燃え上がる炎のようにふわっとゆれる真っ赤な髪を、思い出す。

娘は明るい母親に似ず、大人しくて静かな人だった。

そう、役場で働く人たちのように。

勉強も運動もよくできたけれど、引っ込み思案で遠慮ばかりするタイプだった。

だから、大人たちが気をきかせて、オプニカのアンパにしたんだ。

アンパをやることは民族の将来を担う資格があることを示すことだ。

母親が外国人の彼女は、民族の圧倒的な好意と思慮でその役を与えられた。

代々疎まれてきた薬師の家をそれですくおうとする意図も、たぶん、あった。

娘は張り切り、学校中も、‘ここらへん’の誰もみな彼女を応援した。

新しい‘ここらへん’の誕生に期待した。

そしてカムイ・モシリの審判を受けた。