「正婆いないぜ」

自転車をせっせと押して、ようやくたどりついた正婆の家の前で、背後からふいに声がした。

佐藤の声だ。

でも振り返っても、佐藤らしく姿はみあたらない。

俺はサングラスをはずして、もう一度まわりを見回した。

やはり誰もいない。

正婆の家は、毎朝5時には正婆の一日は始まっているはずなのに、窓もすべて閉められ、もちろん文様彫りの美しい扉もかたく閉ざされている。

アイの姿も見えない。

朝の、このあたり特有の、下りてきている雲でちょっとにごった日差しの中、正婆の家はまるで、周りの木々と同化してしまったように、静かだった。

「佐藤?」

俺はなんだか不気味になって大声で呼んだ。

やはり答えなんか帰ってこない。

最初に聞いた、正婆はいないぜ、の声だけが気味の悪い残響になって、俺の頭の中で響き始める。

ずいぶんとまえ、俺はこれとおなじ声をきいたことがあった。

母さんがいなくなったときだ。

もう戻ってこない母さんからの最期の声だった。

ー飛ばしたんだろうー

じいちゃんがそう教えてくれた。

飛ばすことなら、俺だってときどきやる。