「この間はごめんなさい!」
わたしは大輔君に向かって深々と頭を下げた。
一昨日も何度も謝ったけど、こうして顔を見るとまた自然とそうしてしまった。
「えっ……。いや、なんでヒナちゃんが謝んの? オレの方こそ、怖がらせたみたいで……ごめんな?」
そう言って、大輔君は頭を下げたままのあたしの顔を覗き込んだ。
その表情は本当に申し訳なさそうな顔で……
ああ……この人って見た目の軽い印象と違って、ほんとに人が良いんだなぁ……なんて思ってしまう。
あたしは顔を上げて、二人でほんのちょっと照れくさそうに微笑み合った。
「そうだ。大輔に教えてもらえば?」
あたしの背後からそんな蓮君の言葉が聞こえた。
「え?」
「大輔、理系だから。数学得意なんじゃない?」
「ええ! そうなの?」
大輔君はあたしと蓮君の会話を理解できないようで、キョトンとした顔をしている。
あたしは大輔君に、次の数学の授業のことについて説明した。
「で、いつ? 次の授業って」
快く引き受けてくれた大輔君が尋ねる。
「それが……。火曜なの」
「ええ? ってことは……。今日はオレ予定あるから無理だし。明日しかねーな。ヒナちゃん明日大丈夫?」
「うん」
あたしは勢いよく顔を縦に振って頷く。
「おけ。じゃー……明日ね。蓮哉の部屋で!」
「ちょっ……。なんでオレの部屋なんだよ?」
「いいじゃん。お前、明日はどうせバイトもねーだろ? それにオレの部屋汚ねーし」
大輔君は「ねー?」なんて言いながら、首を傾けてあたしに同意を求める。
蓮君はといえば、フー…ってため息をつきながらも、しょーがねーなって表情をしている。
「じゃ。そゆことで!」
助かったー!
あたしはホッと胸をなでおろして、去っていく大輔君の背中を見送った。
大輔君はやっぱりあたしの王子様だよー!
ううん、違う。
困った時に助けてくれるスーパーマンだ。
も、胸……キューンだよ。
キューン。
―――パコンッ
大輔君に見とれてぼんやりしているあたしの頭を蓮君が小突いた。
「痛ぁ……」
「オレもう行くから」
「あ、うん。今日はありがと。バイト頑張って!」
蓮君は口元を緩ませてほんの少し微笑むと、時間があまりないのか、そのままあたしに背を向けて走り出した。
だけど、数メートル進んだところで振り返る。
こちらを見ながら口をパクパクさせる。
くすっ
心配性なとこも、昔と全然変ってないや。
声は聞こえなかったけど、何を言いたかったか、あたしにはちゃんとわかったんだ。
―――“気をつけて帰れよ”
「で……。そこはこの公式を使って……うん。そうそう……」
あたしは今、数学の個人レッスン中。
先生はもちろん大輔君。
大輔君の教え方ってすごく丁寧でわかりやすい。
はっきりいって、田中先生より上手いんじゃないか?
なんて思ってしまう。
「わーい! できたー!」
あたしはノートを掲げて体全体で喜ぶ。
大輔君のおかげであっという間に問題を全てクリアできた。
「よく頑張りました」
なんて言いながら、あたしの頭を撫でてくれる大輔君。
うっ……。
大輔君て、頭触るのクセなのかなぁ……。
こういうのに慣れていないあたしは、そんな些細な行動にもいちいち反応して顔が赤くなってしまう。
「ありがとう。大輔君って教えるの上手だよねー。先生になれるよ!」
「ははは……。だって、オレ先生だもん」
「え? そうなんだ?」
「うん。バイトね。カテキョやってんの」
「家庭教師……」
その言葉にあたしの妄想アンテナが動き出す。
きゃぁああ。
もしもよ?
こんな素敵な人が家庭教師だったら……。
家庭教師と教え子の恋かぁ……。
あ……だめ。
想像しただけでクラクラしちゃう。
「そ……それって、生徒から告られたりしないの?」
あたしは興味津々な目でそんな突拍子もない質問を大輔君に投げかけた。
一方彼は一瞬キョトンとして、それからプッと吹き出した。
「何、よからぬ妄想してんの?」
「え? 妄想? べべべべべべつにそんなわけじゃ……」
あたしは心を見透かされ、さらに真っ赤になる。
「ご期待に添えなくて申し訳ないけど。生徒は男だよ。しかも中坊」
「なぁーんだー」
「ほんと、ヒナちゃんは可愛いな」
大輔君は肩を震わせて笑いながら荷物をまとめる。
「んじゃ。オレはそろそろ……。今からホントの“先生”だから」
「あ! ありがとうございました」
あたしも慌てて立ち上がり挨拶する。
「ん。じゃな」
大輔君はそう言って、指をヒラヒラさせて出て行った。
『いってらっしゃい。アナタ♪』
なんて、大輔君の背中に心の中でつぶやくあたし。
でへへへへ。
パコンッ!
「お前、さっきからキモいよ……顔が」
背後から突然頭を小突かれた上、そんなことを言われたあたしは頭を押さえながらムッとして振り返る。
そこには、目を細めていかにもバカにしたような表情であたしを見下ろす蓮君がいた。
あはは……いたのか。
すっかり忘れてた。
「お前あいつのこと好きなの?」
うっ……。
いきなり直球。
その言葉だけで耳まで真っ赤なあたしがウソなんてつけるはずもなく……。
「うん……」
多分……。
だって、大輔君はあたしの王子様なんだもん。
「ふーん。……ならアイツに教えてもらえば?」
「え? 数学?」
「じゃなくて。男のこと」
「え! 無理無理無理!」
あたしはわざとらしいぐらい顔をブンブンと横に振る。
「だって、大輔君には『小説書いてる』なんて絶対に言えないし。それに第一、なんか緊張しちゃうよー。こんな恥ずかしいこと蓮君にしか頼めないよ」
「恥ずかしいことねぇ……。ま、いいけど」
そう言うと蓮君は冷蔵庫の方へ向かう。
そしてペットボトルを片手に、もう一方の手にはグラスを二つ、器用に抱えて戻ってきた。
あ……。
アイスティーだ。
あたしが来るからわざわざ用意してくれてたのかな。
蓮君はあたしの側にドカッと腰を降ろし、二人分のグラスにアイスティーを注ぎながら尋ねる。
「で? 今日は何から知りたいの?」
そう。
今日蓮君の部屋に来たのは、勉強はもちろんのこと、小説のネタを取材するためでもあった。
蓮君は目の前のグラスを手に持つと、一口含んだ。
あたしはキチンと正座し直して、ツツツ…と、ほんの少し蓮君の方へ体を近づけた。
「あのね。キスして欲しいの!」
「ぶわっ……」
あたしのセリフがまだ終わらないうちに、蓮君は吹き出してアイスティーをこぼした。
「は……? いきなり何それ?」
蓮君は慌ててティッシュで、服や口元を拭う。
あ……やば。
あたし、また誤解されるような言い方しちゃったよ……。
「あ! ホントにしなくていいんだってば! フリだけでいいの」
あたしは両手を前に突き出して振りながら、慌てて否定する。
そして、小説の中のシチュエーションを説明した。
「二人の位置はちょうどこんな感じでね」
あたしは自分達の座っている位置を指す。
あたしは床にペタンと座っている。
蓮君は片方の足を投げ出し、もう片方は膝を立てて座っているような状態。
あたし達の間には30センチぐらいの空間がある。
「これぐらいの位置から顔を寄せてキスってできると思う?」
そう、今ちょうどキスシーンの描写を書いているんだけど、この位置で上手くキスができるのか試してみたかったのだ。
「んー。できんじゃね?」
そう言って、蓮君は顔を傾けてあたしに近づいてくる。
―――ドクンッ
なぜか急にあたしの心臓の動きが早くなる。
蓮君の、男の人にしては薄い、ほんの少し口角の上がったキレイな唇。
あたしの全神経はそこに集中してしまい、目が離せなくなってる。
そして、あたしの唇は彼の口から漏れる吐息を感じた。
「目、閉じねーの?」
「だって。閉じてたら見えないもん」
「そか」
そう言って蓮君の顔は益々近づいて、唇が触れるまであと数ミリ……ってとこで寸止め。
そしてニヤリと笑って
「これでい?」
と言ってあたしから顔を離した。
「う……うん」
な……なに?
すごいドキドキしてる……あたし。
しっかりしなさいよ!
これは取材なんだから!
あくまでもキスシーンの取材なんだから……。
「うん。良かった良かった。できるみたいだね、キス。はははっ……」
あたしは意味もなく笑った。
口からでた言葉は動揺しすぎて、まるで棒読みみたいだった。
一方、蓮君の方は顔色一つ変えずに
「ああ。軽いキスならね」
なんてさらりと言ってのける。
「ええ?」
か……軽いキスううううー?
そ……そうか。
そこまで考えてなかった。
「じゃ……お…重いキスならどうなの?」
「重いキス?」
なぜか蓮君はくっくっと肩を震わせて笑ってる。
あれ?
ヘンなこと言ったかな?
んー。
つまりディープキスってことだよねぇ……。
あたしの思い描くディープキスと言えば……
ベッドに押し倒して……とか壁に体を押し当てて……とか?
とにかく女の子の背後には支えがないとできないような感じなんだよなぁ……。
んで、かなり強引に奪う! みたいな?
うーん……。
あ!
そうだ!
「首は? 男の子が首に腕を回して、彼女を引き寄せるの! それから彼女の顎を指でつまんで顔を上げさせて深くキスする! みたいな……」
「んー……」
蓮君は一瞬天井を仰いで少し考えてから質問してきた。
「二人はどういう関係? 男の方は女慣れしてんの?」
蓮君のそんなセリフに、なんかちょっと感動してしまう。
……ちゃんと真剣に考えてくれてるんだなぁ……。
「え……えーとね」
あたしは小説の内容を説明した。
二人は付き合ってないけど、両想いであること。
そのキスが二人にとって初めてのキスであること。
男の子の方はキスに慣れてるけど、女の子はそうでもないこと。
「その状況だったら、いきなり激しいのはしねーな」
蓮君はじっとあたしを見つめる。
そして…
「オレだったら……」