自分が、どこで生まれたのかも分からない。
記憶にあるのは、埃や霧に煙る
がらくたに囲まれた 街の片隅の景色。

母さんは 早くにいなくなった。
父さんは 見たこともない。

どうやって生きてこられたんだろう?
自分でも 不思議だ。

もう ほとんど覚えていないけれど、
狂ったように笑う 悪魔みたいな大人に
気まぐれで 可愛がられ、傷つけられ。


今度こそ、死んでしまうのかな と
夜の氷雨に打たれていたところを
院長先生が 見つけてくれたのだった。



だから、さあ行くよ、と施設を出てから
馬車に乗せられて 心から驚いた。

僕が乗ってもいいの?

石畳を弾く ひづめの音に揺れながら、
抱えきれないほどの「こわい」と
ほんの少し、摘めるくらいの「わくわく」で
震えが止まらなかった。


「これから帰るのは、ロウェスターというところ。
 とてもとても古い街だよ」

そこまで言ってから、ハイネはふと
僕の顔をまじまじと眺めた。

「お前の瞳は お月さまの色なんだね」

向かいに座る女の人が微笑んだ。

「ハイネ、“お前”ではいけないわ。
 名前をつけてあげなくちゃ」

「うーん……。
 そうだ、お月さまは 古い言葉で
 Lunaというもの。ルナはどう?」

「それでは女の子の名前よ」

ハイネはまた考える。

「じゃあ、ルウ。
 古い街に住む、お月さまの瞳。
 お前は 今日からルウだよ」


ルウ。


おつきさまの ひとみ。



「……あ、ありがとう」


初めて 持つことを許された 僕だけの何か。

魔法にかかったような気持ちだったよ。

とても 信じられなくて。


だから、半信半疑の言葉は
軽快な馬の足音に 簡単に飲み込まれて、
レンデル家の人々には聞こえなかったかもしれない。