入ったことがないから、
どこが 何のお部屋なのかも分からない。

勢いのまま 走り出した僕は、たちまち
ほの暗く、静まった廊下に 立ちすくむこととなった。

ささやかに届く 坊ちゃまの音色だけが、
唯一 僕の知ったものだった。


「ルウ、どうしたの?」

突然 名を呼ばれて、全身がびくりとした。

「なに? 今朝は部屋の外で熱唱しちゃったの?」


片手に桶、もう片手にブラシを持って
腕まくりしたパディが 一室から出てきたのだった。

「あ、あ、あの……」

うまい言い訳が浮かぶわけもなく、
僕は とにかく彼女に歩み寄った。

「よし、じゃあ わたしを手伝ってくれない?
 ジョイスが寝込んじゃって、手が足りないのよ」

「て、手伝う?」

狼狽し、辛うじて問い返すと、
パディは 鳶色の瞳を僕の後方へ向けた。

「マダムはダメでも、わたしのそばでなら
 好きなだけ、たっくさん 歌ってもいいわ」

え?
うろうろするな、って 叱られる覚悟だったのに。


「雨垂ればかりじゃ、滅入っちゃうもの。
 お前、歌が上手らしいじゃない?
 聞かせてちょうだいよ」

そう言うと、パディは重厚な扉を押し開けた。

ついて回っても、いいってことかな?


僕は おそるおそる 彼女のあとを追いながら、
今まで嫌い続けてきた雨に ごめんね、と
ありがとう、を 伝えたくなった。






とても手早く、手際よく、パディは
たくさんの部屋を お掃除していく。

埃を払い、窓を拭き、クロスを替え、床には塵ひとつ残さず。

だけど どの部屋にも人の姿はなくて、
パディのために 歌いながらも
僕の心は しぼんでいくばかりだった。