なぁん
 ふよふよ浮いていた子龍は、ある大木の手前でぴたりと止まった。その木を見上げると、上には黄色味がかった実がたわわに実っている。
「すごい、いっぱい実ってる! それに、いい匂い! ねえ、この実、食べられるの?」
 やけっぱちになって話しかけてみると、にゅっ、と短く鳴いた。これは肯定なのだろうか。分からなかったが、どうせ死ぬのなら空腹より満腹の方が嬉しいではないか。
 木によじ登り、手前の枝を少し揺すった。振動で熟しすぎた実が下にぼたぼた落ちる。
「わたしも、いつかあんな風に朽ちていくのかしら」
 怒りと虚しさ、そして恐怖が胸を過ぎったが、空腹に耐えかねたお腹が豊潤な香りに反応してまた盛大に鳴った。
 ナギは、欲求のままええいと手前にあった果実を口にした。
「……え、おいしい! なにこれ、今まで食べた果実の中で一番おいしい!」
 甘くて瑞々しいそれは皮ごと食べられる実のようで、喉の渇きも癒え切っていない身にはとてもありがたかった。
 夢中で口に運ぶ。手も衣も果汁でベタベタになるのも構わず本能のまま食べ続けた。
 お腹が満たされると、果汁だらけで笑ってしまった。里にいた頃はこんなこと絶対しなかったのに。
「こんな姿を見せたら、お父さまはきっとひっくり返るわね」
 目を瞑って里を思い出す。瞼の裏に、美しい故郷が見えた。
 美しく咲き乱れる花々。
 青々と茂る木々。
 澄み切った水は枯れることなく滾々と湧いている。
 空気は清らかで、吸い込むだけで中から浄化されていく。
 龍空族の里は本当に楽園だったと思う。
 光溢れる故郷と違い、木々が茂って仄暗いここは、今のナギにとってあの世と同じだ。
「うっ、ッ……」
 我慢していた涙が、またとめどなく溢れる。
 里のためということは分かっている。もしあのまま里に残り、自分のせいで病が蔓延し、みんなが苦しんだり死んだりしたら、ナギは自分を許せなかっただろう。だから、父の決定は間違っていないと思う。
 でも、いざ自分がこの立場になると悲しくてしょうがなかった。
(自分が里に残った立場だったら、今頃ほっとしてたんだわ)
 かわいそうと思いながら、心の底では安堵しているに違いない。人は、自分がその立場になって初めて痛みやつらさが分かる生き物なのだ。
 みじめな思いと、二度と故郷に帰れない悲しさと、もうすぐ自分は死ぬのだという恐怖と、なぜ自分が病にかかったのだろうという怒りがない混ぜになり、ナギは絶叫した。疲れて声が出なくなるまで叫び続けた。
 喉の奥が切れ、喉の奥がぴりっと痛んだ。途端、喉の奥に塊のような違和感が起こった。
 きっと、龍皮病のせいだ。いずれ声も出なくなるのかと思うと、本当に惨めだ。
 ふいに、薄暮の空が目に入った。どんどん薄暗くなる空がまるでこの世の終わりのようで、ナギはぶるりと体を震わせた。
「……でも、わたしはまだ生きてるわ」
 両手で腕をさする。体は温かいし、心臓もどくどく脈打っている。
 ナギは、生きているのだ。
「ねえ、あんた」
 いつの間にかナギの側でじっとしていた子龍に話しかけた。
「その……、果物のこと、教えてくれてありがとう。でも、龍のせいで病になったかもしれないから、あんまり近付かないでよね」
 子龍は聞こえているだろうに、くわ、とあくびをするだけだった。 この日、ナギは住居の中で体を丸めて眠りについた。ここに来るまで、動物に襲われるかもしれないとなかなか寝付けなかったのだ。
 横になった途端、意識は急速に落ちていった。火のない家内は少し寒かったが、寒く感じることは生きている証拠と言い聞かせ、意識が落ちるに身をまかせた。
 翌日。日の光で目を覚ました。たったそれだけのことだが、ナギはとても感動し、瞳から自然と涙がこぼれた。
「わたしは、生きてる」
 言葉にすると、胸の奥がジンと熱くなった。
 ナギは、ここでの生活をもっと快適にしようと思い立った。まずは、寝る時にかけるものが欲しいと思い、敷布を作るため藁を探して回った。
 お腹が空けば果実の木に登って好きなだけ食べ、眠たいと思ったら木にもたれて昼寝をした。
 こんな日々を何日も繰り返していると、ナギは自分がまわりから生かされていることに気付き始めた。里にいた頃は、まわりに存在するものに支えられているなど思いもしなかった。あることが当たり前だったから、まわりから支えられているという認識がこれっぽっちもなかったのだ。
 すべて己でやらねばならなくなった時、自分の世界はすべて自分が動くことで初めて得られるものであり、待っているだけでは何も得られないのだとも気付かされた。そして、自ら動くことで得られるものたちによって自らの命は生かされ、支えられているということも痛感した。
 大地は植物を実らせ、植物は動物に食物を与える。動物は死して朽ち行く時、地に生きる者たちの糧となる。地はその糧を分解して豊かに肥え、その恩恵は再び植物に還る。
「生かされている、わたしは。ここにあるすべてに」
  暁の泉の水もそうだ。この水がこのあたりの植物や果実を豊かに育て、果実はナギを生かしている。
 何もない場所だが、里にいた頃より生きている実感が湧いた。
 皮肉だと思う。病に侵され、こんな状態だからこそ生きていると感じてしまうのだから。
 ふと、自分を支えてくれている林に何か恩を返したいと思った。
 果実の木から空を見上げる。うっそうと茂る上空に、木々の手入れならできるかもしれないと思い、手入れをしてみることにした。
 林は広大で、寝食以外何もすることがないナギのよい時間つぶしになった。今日は東側、明日は西側、明後日は南側、明々後日は北側と進めるうち、果実の木の周辺は少しずつだがきれいに整い始めた。
「今度は、この木の下に光が当たるようにすればいいかしら」
 うなぉん
 子龍が嬉し気に鳴いた。すっかり懐かれてしまったこの動物を追い払うことはもう諦めている。最初は無視し続けていたが、ナギが何かしようとすると、事あるごとに肯定、否定を鳴き声に乗せて教えてくれるのだ。
 一人の寂しさを埋めてくれる存在に、ナギはもう無視しないと降参した。
「でも、病は龍が原因でなったかもしれないんだから。近付かないでよね」
 ぬう
 抗議のような声音をあげたが、子龍はナギの言うことを聞き入れ、決して触れてはこなかった。
 こうして、ナギは奇妙な同居人を得た。お前と呼ぶのも味気なかったので、〝ギー〟と名付けた。ナギのギからとった名前であった。
 不思議なことに、ギーはナギのやろうとすることにいちいち反応した。例えば、手入れの先が林のためになる場所なら甘く鳴き、そうでない場合は鋭く唸った。最初は気味悪かったが、ギーは例の果実の木に連れて来てくれた恩人だ。だから、ギーの鳴き声には従うようにした。
 泉のまわりの木々を手入れて三ヶ月ほど経った頃、果実の木から空を見上げた時、妙に地面が明るいことに気がついた。きらきらと輝く光が大地に降り注ぎ、苔の青々とした色がよく見えた。
「手入れのおかげで、光が差し込むようになったんだわ! やったことは、何も無駄じゃなかった……!」
 目に見えて分かる成果に気をよくしたナギは、その次の日も、さらにその次の日もせっせと林を整えた。
 植物は、ナギに成果という目に見えて分かりやすい結果を与えてくれた。風通しがよくて居心地がよい場所を与えてくれた。空と大地と共に生きていることを、ナギがまだ死んでいないことを分からせてくれた。
 誰とも話すことなく、ギーと一緒に日がな木と土をいじる毎日。いつしか、寂しいと感じなくなっていた。いつの間にか一人でも平気になっていた。
 いつか来る死も心穏やかに迎えられるだろう、そう思えるようになっていた。手入れした木々に囲まれ、この林の一部になることは、一人で死ぬのではないと分かったから。
 ここにきて、たくましくなったと思う。病は少しずつだが進行し、決して油断はできない状態だ。それでも、毎日懸命に生きることに意識を向け、病のことは考えないように努めた。
 そんなある日、泉の辺りから妙なにおいが漂ってきた。鼻につくいやなにおいだ。
 なにかの動物が死んだのかと思ったが、ギーがいるからか、ギーの力なのか分からないが、不思議と泉周辺に他の動物が寄って来ないのだ。だから、においの正体は動物以外の生き物だと予想できた。
「……まさか、人かしら」
 心臓がドッと脈打つ。だ。もし人ならば、ここを〝暁の泉〟と分かった上で辿り着いた、余命いくばくもない人間ということになる。
「ギー、一緒に来て」
 屋根の上でひなたぼっこをしていたギーに話しかけ、ともに泉に向かった。足音を立てないようそろりそろり近付くと、泉の側にうつ伏せで人が倒れていた。予想通り、においの正体は人だった。
 首の辺りで刈り上げた金髪に、ナギより筋肉質な腕が衣から伸びている。男の人なのだろう。
「助けなきゃ」
 近付こうとしたその時、ギーがシャッと鋭く威嚇してきた。
「どうしたの、ギー?」
 シャッ
「まさか、近付くなって意味?」
 また鋭く鳴くと、ギーは自ら男に近付き、こちらを向いた。その距離はナギの歩幅で三歩ほど離れた場所で、どうやら我が身を持って近付いていい距離を示してくれたらしい。
「あの……、大丈夫ですか?」
 ギーが示した距離まで近付き声をかけたが、返事はない。見るからに衰弱していて、呼吸も弱々しい。後ろ姿だけ見れば、自分とそんなに変わらない年齢に見える。
 風に乗って、また肌がただれたいやなにおいがした。
 ああ、この人はもうすぐ死ぬのだ、直感でそう感じた。
「ギー、この人、もうすぐ死ぬのね?」
 にゅう
「でも、ただ死を待つのはつらいわ。何かしてあげたいの」
 死を待つだけの身の辛さは、己が一番分かっている。この身が色々なものに支えられていることを知った今、同じ死を待つのなら、せめて側にいてやりたいと思った。そうすることで、〝命〟に恩返しができ、満足いく死を迎えることができるのではと思ったからだ。
 ギーは、ナギの覚悟を理解したのか、ふわふわと浮くと、男に触れることができる距離まで近付いた。
「わたしも、そこまで近付いて大丈夫?」
 にゅ
 ギーのお許しを得たので、ナギもギーの隣にしゃがみ込む。少年に触れようとしたその手を、威嚇の声が遮る。近付くのはいいが、触るのはだめらしい。
「分かったわ。ギー、ありがとう」
 ギーは黒くて大きな瞳をきょろきょろと動かした。別に、と照れているようで、ナギは小さく笑った。
 近くに寄って分かった。いやなにおいの正体は、男の人の傷口が化膿しているのが原因らしい。特に、右腕の傷がひどい。水を飲ませるより先に傷を何とかせねばと、泉の水を両手ですくって腕にかけてやった。
「っ……」
 小さな呻き声があがったが、すぐに静かになった。ナギは慎重に、少しずつ水をかけ続けた。
「うっ…、み、ず……」
 やがて、男の口から水を求める呻きがあがった。ナギは男を仰向けにするため、直に触れないよう、大きめの葉をいくつも重ねて男の体に触れた。
「熱っ」
 葉越しに触れた手が焼けそうに熱くて、思わず叫んだ。男の体はまるで燃えているように熱く、よくこれで生きていられるなと思うほどだ。
「一体どうなってるの……?」
「うっ……」
 姿勢を変えたことで気が付いたのか、男が目を開けた。男はどうやら少年のようで、見た目だけだとナギとそう年齢が変わらなそうだった。
「あの、大丈夫ですか……?」
 顔を見てぎょっとした。遠い昔に会ったことがある面影が宿っていたからだ。
「あなた、まさか虎石(こせき)族のハジ……!?」
 ナギの心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。もしこの男がハジならば、二度と会うことはできないと思っていた初恋相手に再会したことになる。
 だが、もしそうなら、こんなところで再会するなんて、やはり神さまは意地悪だ。彼がここにいる理由は、ナギと同じく死の淵をさまよっているからだ。
 二度と会えないのなら、せめて元気でいてほしいという願いさえ、病に潰されてしまったのだ。
「こんなのって、あんまりよ……!」
 ナギの嘆きが聞こえたのか、少年は再び目を開けた。薄く開いたそこから、昔と変わらず漆黒の闇のように黒い瞳がうろうろと視線を泳がせていたが、やがてこう呟いた。
「ころ、せ……」
 耳を疑った。何故、殺せなどと言うのだろう。理由を尋ねようとしたが、少年は再び目を閉ざしてしまった。
 どのみち、このままでは死を待つよりほかない。せめて水を飲ませてやろうと、もう一度顔を覗き込んだ。
 やはり、間違いない。体躯こそ違うが、面影は記憶にある初恋相手のそれだ。里では見たことのない金色の髪に薄茶色の眉、すっと伸びた鼻梁が懐かしくて、水をかけながらつい見つめてしまった。
 初めて会った時も、珍しくてついじろじろ見てしまった。
 そんなナギに、ハジは「なにをそんなに見てるの?」と聞いて来た。
「あなたのかみの毛とまゆ毛、とってもきれいね!」
 思ったままを伝えると、少年はきょとんとしたのち「ありがとう」とちょっとてれくさそうに話した。
「きみ、そういえばさっき木にのぼってたよね」
「そ、そうよ。わるい!?」
 ナギは身構えた。女の子は、七つになるころ木登りや狩りのまねをやめて、花嫁修業のため母親の手伝いを本格的に始めるのだが、ナギは木登りが好きだったこと、女の子だからやめなさいと言われることに納得がいかず、ずっと続けている。そのため、どうしても大人たちからは「はしたない」だとか「おてんばにもほどがある」と言われる。こどもたちも、大人たちを真似て言うものだから、この少年にも言われるものと構えた。
(里の外の人間になにを言われてもへっちゃらよ!)
 そう思いつつ身構えていると、
「元気でいいね」
 と、にっこり笑って言われたのだ。
 青い空に金色の髪が揺れる。ナギは、こうして少年に恋をした。
「……それなのに、なんでこんなところで再会するのよ」
 天を仰ぐ。こうでもしなければ、涙が溢れそうだった。
 気を取り直し、葉で水をすくい口に運んだ。少年はむせて咳き込んだが、その後少しずつ嚥下し始めた。
「よかった! 水はたくさんあるから、ゆっくり飲んで」
 なぁん、なぁん
 ギーが少年に寄り添い、しっかりしろと言わんばかりに鳴いている。ギーも、少年に生きて欲しいようだ。
 何度も水を飲ませるうち、顔から赤みが少し薄れ、呼吸が少し落ち着いてきた。
「暁の泉の水って本当にすごいのね。わたしも、これを飲んだらみるみる元気になるもの」
 ついでに、ナギも水を飲もんだ。足にたまっていた疲労が少し引き、体が楽になっていくのを感じた。
「ねえ、泉の水はすごいのよ。ちょっと疲れたなって思った時に飲むと、すぐに回復するの。あなたもお水を飲めば少しは楽になるわ。……だから、がんばって」
 目の前の命を自分のそれとどこか重ね、ナギは消えようとしている命を懸命に繋ぎ止めたいと思った。できることは何でもやろうと思った。目の前の命が懸命に生きようともがいているうちは、決して見捨てないと決めた。
 少年が目を覚ますまで、ナギは彼に水を飲ませ、傷口や熱を持ったところに水をかけ続けた。幸い雨が降ることがなかったので、ナギも少年の近くに藁で作った掛物を持参して、寝ずの看病を行った。
 ギーは、あれからずっと少年の側にいる。ナギには触れるなと威嚇したのに、最近では時折少年の顔を舐めるようになった。
 それを目の当たりにしてすぐに咎めたが、ギーは素知らぬふりをして舐め続けた。ギーが発症したらどうしようとドキドキしたが、今のところその気配はない。
「病気、ギーにはうつらないの?」
 そう尋ねると、黒い瞳をきゅるっと潤ませるだけだった。
 数日後、少年が久々に薄目を開けた。だが一瞬のことで、すぐにまた閉じてしまった。
 彼と自分が重なって見え、ナギも次第に調子を崩し始めた。あんなにおいしかった果実が喉を通らなくなった。それでもと無理に口にすると、全て吐き出してしまった。水でさえ喉を通らなくなった。
 刻々と迫る命の期限。その恐怖に今まで耐えられたのは、少年の世話をしている間は自分がまだ生きているのだと実感できたからだ。だが、少年の命が風前の灯火だと、その世話さえ虚しく感じる。横たわる少年が自分に見え、封じ込めていたはずの恐怖に襲われ始めていた。
 それでも体を引きずり、少年に水を飲ませた。嚥下した際に少しむせたのか、口から水を吐き出した。
「しっかり。がんばって……!」
 なかば自分に投げかけた言葉が、ぽつりと降り始めた雨にかき消される。
 ここに来て初めての雨。このままでは二人とも雨に濡れ体温を奪われてしまう。
「火……」
 そう口にして、まだ火起こしができないことを思い出した。何度か火打石を使って火起こしに挑戦したが、火花がうまく飛ばなかった。
 ちゃんと習っておけばよかったと思っても、どうにもならない。ナギは動かぬ体を必死に引きずり、自分の掛物敷布で少年の肩を掴み、なるべく木々で覆われている場所に移動させた。それから大きめの葉を拾い、少しでも濡れないよう被せてやった。
 比例するように、ナギの衣はどんどん水気を帯びて重くなっていく。
 冷えてガタガタと震える体を必死に腕をこする。
 なぉん、なぉん
 少年の側にずっとついていたギーが、心配そうな声をあげ、ナギの足に顔をこすりつけた。
「や、やだ、ギー、触らないでっ……!」
 ぬう……
 悲しげに鳴き、ギーはよろよろとハジのそばに戻った。
「ギー、わたしは、大丈夫、だか、ら、彼の側に、いて、あげて」
 歯がかちかちと震えてうまく言葉を紡げない。目に入った紙を耳にかけたとき、額の硬化に触れてしまった。硬化していることが分かってから、そこにはずっと触って来なかった。
「こわい、しぬのが、こわいっ……」
 ナギは、衣をまとったまま泉に浸かった。寒さが少し和らいでいく。少年もここからなら見えるし、雨が止むまではしばらくここにいることにしようと決めた。
 もう一度そこに触れる。暁の水を何度も飲んでいるが、そこはちっとも柔らかくならない。
「やっぱり、治らないのね……」
 ナギは深くため息をつくと、何も考えたくなくて息を止め泉に身を沈めた。息苦しさが、自分は生きているのだと教えてくれる。
 めいいっぱい苦しくなったところで水面から顔を出した。天からは今も雨が容赦なく降り注いでいて、まるでナギの涙のようだ。
「わっ!」
 叫び声と、なぁんなぁんというギーの鳴き声があがったのは同時であった。
「……え」
 声が上がった方を向いて驚いた。叫び声の主は、今の今まで昏睡状態だった少年だったのだ。しかも、起き上がってこちらを見つめているではないか。
「よ、よかった、意識が戻ったのね!」
 ナギは、駆け寄ろうとしてギーが威嚇してきたことを思い出し、泉に留まった。
「意識が戻ってよかったね。ずっと起きなかったから、もう駄目かと思った」
 少年は何も言わず、ナギが何者なのか見定めるようにじろじろと見ている。
 次の言葉をどうしようか迷った。久しぶりと言うべきか、覚えてる? と言うべきか。
「……お前が、やったのか」
 先に口を開いたのは、少年だった。少年は、彼にかぶせた大量の葉を見つめている。
「ええ。雨で塗れないようにと思ったから」
 少年は何故か酷く体を震わせた。
「……触ったのか?」
「え?」
「俺の体に、触ったのか!?」
 今にも飛び掛かりそうな勢いで睨まれ、さすがにナギもむっとなった。
「ええ、触ったわよ。あなたの側にある敷布越しに……、きゃっ!?」
 少年に飛び付かれ、気付いた時には少年ごと泉に沈んだ。
 深みに足がはまり、ぬれた服のせいで体がどんどん沈んでいく。里を出て以降伸ばしっぱなしだった髪が、視界を遮って鬱陶しい。幼い頃死に別れた母のように、いつかは長い髪にしたいと思っていたが、絶対短い髪のままがいいと頭のどこかで冷静に感じていた。
 手足をばたつかせたが、浮上するどころかますます沈んでいく。息が苦しい。口を開け、ごぼごぼと水泡を放った。鼻と口から大量に水が入り、ますます呼吸できない。
 水中に飛散する水泡が魂の天昇に見え、ああ、自分はこんなところで死ぬのだろうかと思ううち、意識が遠のいていった。
 次に目が覚めた時、そばで火が柔らかく爆ぜる音が聞こえた。
「気づいたか」
 視線だけ声の方向へ向けると、少年が火の向こうで膝を抱えていた。
「……死ぬかと思った」
 正直に言うと、少年は膝に顔を埋め「悪かった」と呻いた。
「悪かったじゃないわよ」
「しょ、しょうがねえだろ。体を触られたのが嫌だったんだ。それで、ついかっとなっちまって……」
「つい、で押さないで。こっちは死にかけたんだから」
「……悪い」
 大きくため息をつき、ふと気がついた。以前あった喉の痛みが薄れているではないか。初めてこの地に来た日、泣き叫んで痛めたところが、大量に水を飲んだ影響で症状が緩和したのだろうか。もしそうなら、やはり暁の泉の力は偉大だ。
(でも、表面の皮膚は柔らかくなってない)
 足に触れ、続いて額にも触れる。どちらも硬いままで、がっかりした。いくら水を飲んでも、病が決して治るわけではないのだ。
(期待、させないでよ……)
 手のひらをぎゅっと握り、唇を噛んだ。
 側でぱちぱちと燃える火の音に、沈んだ心が少し救われる。ここに来て初めて聞くそれにほっとし、凍えるほど寒かった体も温もりを取り戻しつつあった。
 闇夜に揺らめく炎を見つめ安心したのか、急激に眠気が襲ってきた。
「眠い……」
「寝ろ」
 少年は、ぶっきらぼうにそう言った。
 人と話すのは里を出て以来だ。言葉で返事が来ることがこんなにも楽しいとは思わなかった。
 なぁん
 ギーの鳴き声が子守歌のように聞こえた。
 一体どれくらい眠っていただろう。木々の間から差し込む光で目を覚ました。
「光、こんなに差し込むようになってたんだ……」
「おい、いつまで寝てるんだ」
 その日を遮るように、少年が顔を覗き込んで来た。
「きゃあぁっ」
 驚いて起き上がる。あやうく少年に頭突きをするところだった。
「あ、あぶねえだろが!」
「人の顔、覗き込むからでしょ! てか、近付かないで! そ、そう、わたし、病持ちだから! うつすかもしれないから!」
 手のひらを突き出すと、少年は驚いたような戸惑ったような顔をして後ろに下がった。
「……そうか、お前も病持ちなのか。いやまあ、ここにいる時点でそうだよな」
 離れたところに腰をかけ、少年はまじまじとナギを見つめた。どうやら、ナギのことは覚えていないらしい。しかも、目の前の少年は、ナギの記憶にある彼と違ってずいぶんとぶっきらぼうだ。
(昔は、神話に出て来る皇子さまみたいにさわやかできらきらしてたのに……。男の子って成長するとこんな風に変わっちゃうのかしら)
 がっかりしつつ、初恋の甘い記憶は封印しておこうと思った。
「顔にあるそいつは、病気のせいか。皮膚が硬化する病……、龍皮病か?」
 顎で頬の硬化をさす。ナギは手で硬化を隠した。初恋の相手に見られたくない部分を指摘され、心がざわざわと騒ぐ。
「そうよ、それが何?」
 ぶっきらぼうに言うと、「俺に触れるなよ」とまたぶっきらぼうに返された。
「分かってるわよ。病は、接触するからうつるって薬師から教わってるから。あなたに触れるときも、直接は触ってないから安心して。ていうか、あなたもここに逃げ込んで来たってことは、病持ちなんでしょう?」
「ああ。俺は、虎熱(こねつ)病ってやつだ」
 薬師から教えてもらった記憶を辿る。確か、体温が異常に高くなり、内側から燃えて死に至る病だと記憶している。
「お互い大変ね」
「……」
 少年が押し黙ってしまったので、ナギも口を閉じた。
「……その、昨日は本当に悪かった。お前を押したりして」
 しばらくして、少年はばつが悪そうにぽつりと呟いた。後頭部に回した手が、金色の短く刈った髪を撫でる。
 ショリショリという音が珍しいのか、ギーが興味津々な目をして男子に近付いた。
「なあ、こいつはお前の飼い龍か? お前が寝てる間、やたら懐いてきやがって、うっとうしいったらないぜ」
「飼ってない。懐いてはくれてるけど……」
 ギー、と名前を呼ぶと、口ひげをぴょこぴょこ動かし、ナギの肩に乗って来た。細い体なのに意外と重量があって、ナギの体が少し重くなった。
 その時、少年のおなかが盛大に鳴いた。つられてナギのおなかもきゅるると鳴いた。
「……肉食いてえけど、まだ狩りに行く元気はねえな」
「果物なら、そこになってるあるけど……」
「食いたい!」
 途端目を輝かせ、男子は飛び跳ねた。昔の方がよっぽど落ち着いていた気がする。やはり初恋の思い出は封印しておこうと改めて誓ったのだった。
 果実の木に連れて行くと、少年は歓声をあげたのちすぐに俯いてしまった。
「どうしたの?」
「……木に登れねえんだ。ガキの頃、高いところから落ちて怪我をたことがあって。それ以来、ちょっと苦手なんだ」
「そっか。じゃあ、取って来るからここで待ってて」
「あ?」
 困惑する少年をよそに、ナギはするすると木に登ってみせた。
「お、お前、平気なのか!?」
「木登り、得意なの。ねえ、少し下がって。今から木を揺するから、実に当たると危ないわよ」
「お、おお」
 少年が木から遠ざかるのを確認し、木を揺すって身を落とした。ぼたぼたと食べごろの実が地面に次々に落ちていく。ギーがするすると実に近付き、一番おいしそうなものを見つけるとにゅっと短く鳴いた。
「ギーが、それが一番おいしいって」
 男子は戸惑っていたが、その実を拾い上げ、においを確認したのち、実についたゴミを払ってかぶりついた。
「……うめえ!」
「良かった。まだあるから食べて」
「ああ!」
 男子の目がまた輝く。
 彼を見ているうち、ナギも空腹だったことを思い出し、手近な身をもいで食べた。絶食状態だったので、口の中に溢れんばかりに唾液が出てじくじく痛んだ。
「あ、こら、絡むんじゃねえよ。今、分けてやるから」
 下を見ると、少年がギーに果実を与えていた。懐かれて困ると言っていたのに、本当は嬉しいのだろう。にこにこと笑顔全開だ。素直じゃない性格なのかもしれない。
「ねえ、あなた名前は? わたしはナギ」
「ハジだ」
 初恋相手と同じ名前で、目の前の男子はやはりナギの初恋相手だった。ひそかに、心の中でため息をついた。
「ありがとな、こんなうめえ果実教えてくれて」
 昔見たのと同じ屈託のない笑みに、ため息をついたばかりの心がどきっとはねる。
(何でどきっとするのよ! ハジは、もうあの時のハジじゃないのに)
 どきどきする心を落ち着かせようと胸を叩く。ハジが不思議そうにこちらを見ていたが、「あのよ」と話しかけて来た。
「な、なに」
「お前、どうやってここで暮らしてきたんだ? お前が倒れてる間に住居を見たが、火打ち石はあるのに火をつけた痕跡がなかったから」
 ナギは果実を喉につまらせそうになった。
「……まさか、お前火つけられねえのか?」
「……そのまさかです」
「よく今まで生きて来られたな」
 ハジの呆れた声に何も言い返せなかった。
「教えてやろうか、火のつけ方」
 思わぬ言葉が聞こえて来た。
「え、本当!?」
「助けてもらったしな。それに、さっき泉に落としちまった借りもあるし」
「それはもういいよ」
「でもよ……」
「じゃあ、共闘しない?」
「共闘?」
「そう、共闘」
 木を降り、ハジと同じ目線になって言葉を続けた。
「あなたもわたしも病持ちで、いつか死んじゃうことが決まってる。いつ何が起こるか分からないなら、一緒に協力して生活したら、お互い都合がいいんじゃないかと思ったの。それに、どうせ死ぬなら満足して死にたいじゃない? 理不尽なことに負けたくないじゃない」
「お前、変わったやつだな」
 ハジは、片眉をあげナギを不思議そうに見つめた。
「木登りが得意だから、果物とか取ってあげられる。あなたは、火を使ってわたしを助けてくれたらいい。それぞれの得意分野を生かして、一緒に病と闘うの」
「だから、共闘か」
「そう」
 戸惑っていたが、やがてハジはにっと笑った。
「……いいぜ。俺にとっても、その方が都合がいい」
「じゃあ、決まりね」
 握手を交わす代わりに、二人は互いを見て頷き合った。
 こうして、ナギは新たな同居人を得た、
 二人の生活は、日中は狩猟、夜は火起こしの練習を中心に回り始めた。ギーがいる影響で狩猟場は必然的に少し離れた場所になる。ギーに留守をまかせ、二人は狩猟場に出向くのが日課となった。
 二人の息は、最初こそうまく合わなかったが、次第に慣れてくると、一匹、また一匹と獲物が取れるようになった。
「……だから、何回も言ってるだろ。この尖ったところめがけて素早くこすりゃ、火花が飛ぶんだよ」
 一方の火起こし。ナギはハジに教えられた通り火打石を打っているが、なかなか使いこなせず、いまだに火花もろくに飛ばせずにいた。
「ここまでできないと、さすがに落ち込むわ……」
「力がいる作業ではあるからな。とはいえ、早い段階で習ってりゃ、こつみたいなもんが身につくもんなんだが……。何で火起こしを習わなかったんだ?」
「い、色々、理由があるのよっ」
「そうかよ」
 ハジは呆れつつ、慣れた手つきでカチ、カチと火打石をぶつけた。不思議なことに、同じ火打石を使っているのに、同じように鳴らしているつもりなのに、ナギは火花さえ散らないのに、ハジは見事に火花を散らし、あっという間に種火を作ってしまった。
「すごい……」
「まあ、こんなの日頃からやってりゃ当然だな」
 言葉のわりに嬉しそうなハジに、素直じゃないなと呆れる。
「ハジが火起こしを覚えたのっていくつの時なの?」
 勢いよく燃え上がる炎に、木に刺した肉を近付ける。肉が焼けるにおいが充満し始め、二人の腹が同時に勢いよく鳴った。
「多分、十くらいじゃねえかな。その頃には、狩りに連れ出されてたからな。狩猟場が遠くて野営することもあったから、自然と覚えた」
「へえ。ちなみに、今何歳なの?」
「十五」
(わたしより一つ年上なんだ……)
 てっきり年下だと思っていたので、少し驚いてしまった。子供っぽいところがあるからというのが理由だが、機嫌を損ねるといけないので黙っておいた。
「石が丸まって来たな」
 ハジが眉間にしわを寄せる。
「丸いとまずいの?」
「ああ。尖ったとこに石を当てるから火花が散るんだ。だから、丸くなったら石は、わざと尖らせるんだ。丸くなりそうだったら教えろよ。予備も作っておいてやるよ」
「分かった。……っ、寒い」
 体がぶるりと震える。龍皮病の症状の一つだ。
「お前、狩りの後によく寒いって言うよな」
「うん。疲れがたまると寒くなるの。龍皮病の症状なの。最近は、頭がちょっとぼーっとするようになってきたわ」
 一人の時はなるべく疲れないよう一日の行動を計画的にしていたが、今はそうはいかない。狩猟で体力を使うし、その狩猟場が住居から遠いのも結構しんどい。
 狩猟に行かずに生きることもできなくはないが、ハジの主食が肉なので狩猟に行かないわけにはない。
 こんな状態なので、体力温存のために森の手入れは休んでいるが、またいずれやるつもりではあるが、一体いつになるだろうと頭の片隅でぼんやり思った。
「龍皮病って、具体的にはどんな感じなんだ?」
 焼けた肉に目を輝かせつつ、ハジが言った。
「今みたいに、疲れがたまってくると、寒さを感じて身動きが取れなくなるの。……あとは、額のこれみたいに、傷がついたところの皮膚が硬くなるわ」
「で、最後は呼吸困難で死ぬんだろ? えぐいよな」
 木の皮をくべるハジの顔が赤い。火の赤さなのか発熱なのか、色だけでは判別がつかない。
「病の原因は、名前の通りやっぱ龍なのか?」
「多分。里の上空に龍の大群が来たことがあって、わたしの頭の上に何かが落ちたの。それを触った後すぐに発病したから」
「じゃあ、俺も、もしかしたら発病してるかもしれねえな。あいつに、散々舐められてるし」
 あいつとはギーのことである。
「皮膚が硬いところとか、寒さを感じることはある?」
「今のところはねえな。むしろ、毎日暑い」
「体が異常に熱くなってたわね」
「ああ。〝虎熱病〟は、体温が徐々に上昇して、やがて内側から全身が燃える病だ」
「だから、あんなに熱かったんだ」
「今も熱い。これが発熱のせいか、火のせいなのか、最近じゃもう分かんねえよ」
「大丈夫なの、それ」
「さあな。どっちにしろ、死ぬ時は燃えて消えるんだ。熱いとか感じる間もねえだろうぜ」
 自虐的に笑うと、ハジは頭の後ろに腕をあて、わらの上にごろりと寝転がった。
「……俺が病気になったのは、虎に噛まれたからだ。虎に噛まれるのは、俺たちの一族にとっては通過儀礼なんだ」
「通過儀礼?」
 ハジは起き上がると、右腕をさすった。
「青年になる儀式ってやつでな。男子は、十五になる年に、虎に体の一部を噛まれる決まりになっている」
「噛まれて死なないの?」
「もちろん、死ぬやつもいる。でも、それで死ねば、そこまでのやつだったってだけだ。弱いやつは、遅かれ早かれ命を落とすからな」
「そんな……」
「これが、俺たち虎石族の掟だ。物心ついた頃からそう教え込まれて来た。だから、別に憤りを感じることはねえ」
 口を挟むなとばかりに断定するハジに、ナギは口を閉ざすしかなかった。
「掟が嫌なら、里から出て一人で生きればいいだけだ。それに、噛まれても、生き残るやつは生き残るからな。俺は、病を得るって特別な状況だったけど、こうして生き残ってる。まあ、おかげで即里から追放だ。大変だったぜ」
 くせなのか、再び自虐的に笑った。
「でも、ここでお前に会えたのは幸運だったと思う
「え……」
「右腕の皮膚がただれてたのは、ここを虎に噛まれたからなんだ。俺が倒れてる間、お前がずっと看病してくれたんだろ? おかげで、右腕はまだ生きている。おかげで、狩りができる。だから、お前には感謝してるんだ。お前に会えたことが、俺の幸運だ」
 ナギは泣きそうになった。運試しに近い青年の儀式で病を得、いつ死ぬかも分からない状態で、怒りや葛藤を抱かなかったわけがない。なぜ自分がと思っただろうに、ナギに感謝をしてくれた。
「……今日は右腕がちょっと疼くな。今日は泉の側で寝るわ。種火は残しておいてくれ。そこの砂を少しずつ撒けば、全部は消えねえ。一気にかけるなよ」
 そう言うと、ハジは暗がりの中に消えた。
(神さまは、どうしてこうもいじわるなの……?)
 残されたナギは、膝を抱え火を見つめ続けた。燃やすものがなくなった火は次第に衰え、やがて自然に消えた。明るさと温かさが失われた住居は、闇と寒さに支配された恐怖の場所に感じ、ナギは一人でいるのが怖くなって住居を飛び出した。屋根で丸くなっていたギーがそれに気付き、慌ててついてきた。
 空には満月が輝き、辺りを優しく照らしてくれる。なのに、ナギの心は真っ暗だった。おまけに、いつもより寒い。
 最近気付いたが、寒さを感じるのは、疲労がたまるときだけではない。心が暗くなったときにも表れるらしい。心身とはよく言ったものだと、他人事のように思った。
 身を丸め寒さをしのごうとしたが、体は震えるばかりでちっとも温まらない。泉の水を飲めば少しは改善するかもしれない。よたよたと、泉に向かって歩き出した。
 手入れをしていたおかげで、泉までの道をなんとか歩くことができた。
(なにかの役に立とうと思ってやったことは、無駄にはならないのかもしれないわね……)
 身を震わせた、そのときだった。
「っ、ぁ……!」
 静かな森の奥、何かが聞こえた。
「……何かしら」
 耳をそばだてると、また奥から何かが聞こえた。
 ぎいいいっ
 ギーが突然耳障りな金切り声をあげ、泉へと一目散に飛んで行った。
「ギー!?」
 ナギも、足元を確認しながらなるべく泉へと急いだ。
 その泉の近くで、何か赤い光が見えた。同時に、何かが焼ける異臭が鼻をついた。ハジが点火した火が林に燃え移ったのだろうか。落雷があるようや天気には見えない。
「まさか、ハジに何かあったの……?」
 心臓が、ドッドッといやな鼓動を繰り返す。呼吸が浅くなり、ナギは忙しなく胸を上下させた。「大丈夫、そんなことない。だって、ついさっきまで笑ってたじゃないっ……」
 不安を打ち破るため、大声で叫んだ。だが、現実はナギの嫌な予想通りだった。
「うあああ、あ、あ、熱い、あぁあっ!」
 炎の正体はハジだった。人の形をした火だるまがひとつ、森の中を転がり回っていて、ナギは信じられない光景に目を疑った。
 助けなければ。そう思うのに、足がすくんで動かない。
「しに、たく、ねぇっ……」
 うめき声とともにハジがこぼした言葉に、ナギは我に返った。初めて会ったとき、「殺せ」と呻いた口から紡がれたこれこそ、ハジの本音なのだ。
「ハジ、しっかり! 今、火を消すからッ!」
 自分を奮い立たせ、ハジに駆け寄り手を伸ばした。が、炎の勢いが強くて、思わず手を引っ込めてしまった。その間にも、ハジは呻きながらもんどりうっている。泉を見失っているのか、右往左往している。
「わたしが、泉に連れていかなきゃ!」
 けれど、泉までまだ距離がある。迷う間にも、ハジは苦痛の叫び声をあげている。
「うう、なんで、おれがっ……! うっ、まだ、ああぁっ、死にたくねえ!」
 ハジの呻きが、また聞こえた。泣いているようにも聞こえるそれに、ナギはハジを思い切り睨んだ。
「ハジのうそつき! 何が殺せよ、全然違うじゃない! 生きたいって、素直に言いなさいよ!!」
 叫ぶと、ハジに向かって走り、思い切って炎の中に手を突っ込んだ。ギーが抗議の声をあげ腰にまとわりついたが、決して手を離さなかった。
 ハジの燃える手を掴む。途端、自分のも燃え始めたが、皮膚がすぐに硬化し、火が消えた。それを高速で繰り返すことで起こる鋭い痛みに、ナギは空に向かって絶叫した。瞳からこぼれる涙は炎によってすぐ蒸発する。皮膚が焼ける嫌な臭いが、より気分を不快にさせたが、絶対離すものかと手をさらに強く握った。
「はな、せっ……」
「うるっさい!! 黙って歩け!!」
 怒鳴り、そのままハジを引きずる形で泉へ運んだ。
 こんな大きな声、今まであげたことはない。大声を出すと、大人たちに「はしたない」と言われてきたからだ。
「なにがはしたないのよっ、生きるのが当たり前のやつらに、ッ、何が分かるってのよ! あー、もう、痛いっ!!」
 なんとか泉のたもとにたどり、すぐにハジに泉の水をぶちまけた。瞬く間に火は消え去り、炎の中からハジが現れた。奇跡的に顔や手足に火傷を負っただけで済んだようだ。ナギは一瞬だけ喜び、火傷を負ったところに水をかけ続けた。
「うっ……」
「しゃべらないで……」
「……もう、少しで…うっ、死ねた、のに……」
 頬を伝う涙が、それが嘘だと訴えている。
「死にたくねえって叫んでたの、聞いたし」
「…言って、ねえ、し……」
「はいはい……」
 ハジの隣に座り、ナギは自分の手も浸した。じゅっ、と変な音が鳴って手のみずぶくれがすぐさま回復し始める。皮がめくれたところは早くも硬くなり、ナギの手は、女の子のそれではなく、まるで龍のようにいかつい成りに変わっていた。
 水から取り出し、動かしてみる。動くけれど、水や草を触っても感触がにぶい。手という形を保っているだけで、色んな機能が壊死しているのかもしれない。
 それでも、ハジを助けたことを後悔していない。
 落ち着くと、色んな感情が湧いてきて一気に涙があふれた。ハジが火だるまになっていた恐怖、助けたい一心で動いた自分を誉めたい気持ち、そしてハジが無事だった安堵。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、ナギは声を上げて泣いた。
「…んで、おまえが、ないてんだよ……」
「うっさい! あんたの、っ、せいよ! ハジのばか、ばかっ!!」
「語彙力、ねえのかよ……」
 苦笑すると、ハジの手がそっとナギの手に触れた。
「っ、いけない、触ったら……!」
「もう、おせえよ……。俺ら、接触してるだろ」
 炎越しとはいえ、ナギもハジに触れた。お互い、お互いの病をいつ発症してもおかしくない。でも、ちっとも怖くなかった。
「どうせ、もうすぐ死ぬもの。今さら病が増えても、怖くないわよ」
 ふんと弱々しく鼻を鳴らす。ハジもつられるように、弱々しく鼻を鳴らした。
「……ありがとな、助けてくれて」
 ハジの言葉に、止まりかけた涙がまたこぼれた。
 にゅう、にゅう
 ギーは落ち着かないのか、ずっと二人のまわりをぐるぐる回っている。
「ギー、びっくりさせてごめんね。二人とも、大丈夫だよ」
 二人に交互に体をこすり付け、なぉん、と甘えるような声をあげると、ギーはハジの顔をゆっくり舐め始めた。
「おい、くすぐっ、あ、こら、やめっ……」
 小さな笑い声がしていたが、しばらくして引き攣った声が聞こえて来た。目を覆った腕の隙間から、涙が伝い落ちるのが見えた。
「疲れて、何も見えないなあ……」
「……嘘つけ」
 口調とは裏腹に、ハジの声は少し明るくなった。
「少し休もう、ハジ。起きたら、果物食べよう……」
「ああ……」
 微笑み合い、二人は静かに目をつむった。
「ん……」
 いつの間にか眠っていたらしい。隣を見ると、そこにハジの姿はなかった。
「ハジ!?」
 飛び起き、辺りを見回す。昨夜に続き、また何かあったのだろうか。胃の辺りがきゅーっと締め付けられ、心臓がドクドクと早鐘を打った。
「起きたか」
 そこへ、上半身裸のハジが現れた。
「きゃっ! な、なんで裸なの!?」
「沐浴してたんだんよ。なんだ、男の裸見るの初めてか?」
 にやにや笑うハジを思い切り睨み付けた。
「それだけ軽口が叩けるなら、もう大丈夫そうね。それにしても、昨日あんなにすごいことになってたのに、やけに回復するの早いわね」
「それは……」
 珍しく口ごもったが、「俺の体力のなせる技ってやつだ」と威張った。
「そういえば、どうして上半身脱いでるの?」
「ああ、送り火をやろうと思ってな、沐浴してきたんだ」
「送り火?」
「虎石族のなわらしだ。狩猟した動物たちの魂が、あの世へつつがなくたどり着けるよう、火を焚いて送ってやる儀式のことだ」
 こうすることで、今世で使った魂の方舟たる肉体は浄化され、魂はそれに留まることなく来世へ旅立てるのだと考えられているそうだ。
「肉体は魂の方舟……。素敵な言い方ね。その儀式、よかったらわたしにも手伝わせて」
「じゃあ、木の皮とか燃えるものを探すのを手伝ってくれ」
「わかったわ」
 二人は食事をすませると、さっそく送り火の着火剤となる木の皮を探しに林に入った。
「いたっ!」
 そこで、ナギは木の皮で頬を鋭く切ってしまった。
「何やってんだよ」
 苦笑した顔がひきつる。ナギの肌が硬化する瞬間を目にしたからだ。
「……見たでしょ? これが、〝龍皮病〟の症状」
 苦々しげに呟き、「でも、いいこともあるのよ」と努めて明るい声を出した。
「血、出ないの。天然の止血よ」
「……強がって言わなくていい」
「強がってないわ。止血になるのは本当に助かってる。……でも、目で見えるところに症状があると、見えちゃうせいで、やっぱり病気は進行してるんだなって現実感してがっかりしちゃう。それがつらいだけ」
「……」
「わたしのことはいいわよ。それより、送り火の準備があれば手伝うから、教え……」
 振り返った時、突然めまいがおこり、続いて呼吸ができなくなった。
「お、おい、大丈夫か?」
 ハジの声が聞こえるのに、目の前の景色がぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。息も、どんなに吸おうとしても、ヒューヒューと浅い呼吸しかできない。
(なに、これ……)
 怖くて抱いた両腕がいつも以上に冷たくて硬い。ついに、死が迫ってきたのかもしれない。そう感じた時、足から力が抜け、その場に崩れ込んだ。
「お、おい!」
 ハジが駆け寄り、背中に手をあててくれた。その手がびくっと震えて背中から離れた。
「お前、なんだよその冷たさはっ……」
 言った後ではっと息を飲んだ。ナギの身に何が起こったのか悟ったのだろう。顔に絶望が浮かんでいた。
「お前、何で急にこんなっ……」
 何か言いたかったが、頭がぼんやりしてしゃべることができない。
「今すぐ火を起こしてやる、それまで耐えろ!」
 ハジは肩を二度ほど叩き、すぐに火起こしの準備にとりかかった。カツッ、カツッ、と石が鋭くこすれる音が心地よい。
(わたしの出す音と……、全然違う……)
 聞き惚れていると、ぬう、ぬう、とギーの鳴き声が聞こえた。目を開いているのに、視界がぼやけてなにも見えない。ギーの姿を確認することはできない、声はずっと聞こえていて、側にいてくれているのだと分かった。
「触るぞ」
 耳元でハジの声が聞こえると同時に、体が宙に浮いた。どうやらハジに抱き上げられているらしい。軽々と抱き上げられ、ハジが男の子だったことを急激に意識した。
 途端、恥ずかしくなって降りたくなったが、体が言うことを聞かず、ナギはされるがまま火の側に運ばれた。
 もし助かったら、彼を男の子と意識せずにちゃんと接することができるだろうか。自信はないが、気持ちだけは頑張りたいと思った。
「水、飲めるか」
「ッ、っ……」
 もういい、十分だよと伝えたいのに、言葉をうまく紡げない。
「何だ、何が言いてえんだよ、はっきり言えよ……!」
 なぜか、ハジの声が震えている。
「バカやろう、死ぬな、死ぬんじゃねえ!」
 ぽたりと頬になにかが落ちる。それば、ハジの涙だった。自分に死が迫っていることを感じ、泣いてくれているのだ。
 ふいに、満足いく死とはなにかが分かった気がした。
 自分の命が誰かの役に立ち、また誰かに生かされていることを知ること。自分の命を、誰かに泣いて惜しまれること。これが満足いく死ではないか。
(……だったら、わたしは、もっと、ハジの、役に、立ちたいッ……!)
 瞼を必死にこじあけるも、力を入れても勝手に閉じてしまう。閉じたらきっと二度と開かない気がして、必死に抗。けれど、重すぎてもう楽になりたいと思う自分もいる。
 なぜ、この体は自分のものなのに、いうことをきかないのだろう。龍空族の里にいたころ、「女の子だから」という理由だけでおてんばな自分を否定されたときのような息苦しさが胸に湧きおこった。
 わたしは生きたい。まだ死にたくない。誰かの役に立てたと実感できるまで、この命を失いたくない。なのに、体が勝手に動きを止めようとしている。魂の方舟が勝手に朽ちようとしている。魂はまだ生きるのだと叫んでいるのに!
 頬を涙が伝う。瞼さえ意のままにできない悔しさからくる涙だった。
 やがて、ナギは瞼の重みに耐えかね、そっと目を閉じた。
「……おい? おい、お前!」
 お前じゃないよ、ナギだよ。何で名前を呼んでくれないの? 昔、あなたに会ったことだってあるのに、忘れちゃってるなんてひどいよ。
 心の中で文句を言ったが、今の自分を見てくれるのはハジだけだ。ハジだけが側にいてくれた。手を握ってくれた。
 ハジの声が、どんどん小さくなる。耳は最期まで聞こえるそうだが、それも寿命が尽きれば話は別だ。
 ああ、ここで終わりかあ。森の手入れが中途半端なままだなあ。ハジが受け継いでくれたら嬉しいけど、ハジは高いところが苦手だから難しいよねえ。
 ナギの心はたくさんおしゃべりを続けた。もう一度起きて、ハジの役に立ちたかったが、それはかなえられうにない。それだけが心残りだが、そんなに悪い最期ではないと思う。
 もし生まれ変わることができたら、今度はハジと同じ里に生まれ、ハジと恋人同士になれたらいいな。今世で実らなかった初恋をちゃんと成就させたいな。
 そう、夢見た。
 ハジ、好きだったよ。あなたは覚えてないけど、わたし、あの頃からずっとハジのことが好きだったよ――。
 呼吸が止まるのを感じた次の瞬間、喉に違和感を覚え、ナギは思い切り咳き込んだ。体が自然と酸素を求め、激しく胸を上下させる。
 ぜえはあと荒い呼吸とともに目を見開くと、目の前にハジの顔があった。
「……ジ?」
「戻って来たか」
 ひとつ息を吐くと、ハジはナギの顎を掴み、何かを舌伝いに流して来た。どろりとしていて生々しい味がするそれは、血だった。
 ハジの手のひらからぽたり、ぽたりと流れるそれを飲み込むと、体の奥から燃えるような熱が生まれ、止まりかけていた心臓がドクドクと力強く脈打ち始めた。
 呼吸が落ち着くのを確認すると、ハジはナギを地面に寝かせ、背を向けた。
「……ハジの血を飲んだ瞬間、体が熱くなったわ。あれは、どうして?」
 長い沈黙の末、ハジは額を抱え、話し始めた。
「俺の血には、治癒能力があるんだ。虎石族の男が、青年儀式で虎に噛まれるって話したの、覚えてるか」
「うん」
「虎に噛まれたやつは、その血に治癒能力を宿すことができるんだ。でも、条件がある。それは、虎熱病にかかったやつだけなんだ」
「え……」
 ハジは、病気になって力を獲得した。それを知った村の者たちは、ハジを隔離しつつ便利な道具として飼い殺そうとした。
「この血があれば、どんな傷も病気も、お前みたいに死にそうになったやつでさえ復活させられるからな」
「そんな……」
「俺が初めてお前と会った日、ボロボロだったのは、里から命からがら逃げて来たからなんだ」
「ど、どういうこと……?」
 ナギの顔から血の気が引いた。
「病は怖いが、血は欲しい。そう思ったあいつらは、俺を殺して血を絞り出そうとしたんだ」
 ナギは両手で口を押さえた。全身から血の気が引きそうな話に、吐き気すら覚えた。
「安心しろ、やつらはここには来ねえ。里から逃げたやつとは絶対接触しねえ。そういう掟があるからな」
「そんな心配、してないわよ……」
 自虐的に笑うハジの顔を見ていられず、ナギは両手で顔を覆った。龍皮病でごつごつとした感触が気持ち悪かったが、気持ち悪いと思えるのは生きているからだ。ハジに、命を分けてもらったからだ。
 ナギの心は、ハジの運命を嘆く気持ちと、もう一度生きることが出来る喜びに挟まれ、ぐちゃぐちゃだった。
「……ねえ、病が治るなら、ハジも血を飲めば治るんじゃないの!?」
 言って後悔した。ハジの顔が、否と答えていたからだ。
「ここに来るまでも、ここに来てからも、ずっと飲んでる。でも、実感するのは進行が遅くなるくらいだ。もう、手遅れみてえだ。……それと、悪い、お前の病も、治せねえみてえだ。お前の硬くなってるところ、失くなってねえもんな。はは、どんな病にでも効くなんて、嘘だな」
「……そっか」
 もしやと思った願いも、見事に打ち崩されてしまった。ナギは唇を噛み、泣くのをなんとか堪えた。ハジがどれだけ病に絶望し、血に助けを求めてきたか、今の話で痛いほど伝わってきたからだ。そして、ナギもまた、一縷の希望にすがったが、現実はナギたちに厳しかった。
「お前に助けてもらうたび、いつもすぐに回復できたのは、血を飲んでいたからだ。意識を取り戻してからすぐに動けるようになる程度なら、効果はあるんだ。火だるまになったときは、皮膚が焼けて傷をつけるどころじゃなかったけどな」
 ハジは小さく笑った。
「でも、お前を助けられたのはよかったぜ。命の恩人に、ひとつは借りが返せたからな」
「え……」
「だって、そうだろ? お前がいなきゃ、最初は泉の側で死んでただろうし、火だるまのときだってあのまま丸焦げになってただろうさ。どっちも、お前が俺を死の淵から救い出してくれたんだ。おかげで、俺は今こうして生きてるんだ」
「……わたし、ハジの役に、立ったの?」
「当たり前だろ」
 ハジは屈託のない笑みを浮かべた。
 ハジの言葉が胸にじんわりと染み込んでいく。死の淵でハジの役に立ちたいと思った願いは、もう叶っていた。ナギが自覚していないだけで、とっくに叶っていたのだ。
 こらえていた涙が、どんどん溢れて止まらなくなった。
「お、おい、何で泣くんだよ」
「だって、嬉しいから……」
 頬に触れる。雫がひとつ、またひとつとこぼれ手を濡らしていく。手は、感触を失いかけているはずなのに、不思議と涙がから温もりを感じ、ナギはまた違う涙をこぼした。
「どうすりゃいいんだよ、これ」
 当惑するハジには悪いが、ナギは涙を止められそうになかった。
 にゅにゅっ
 その時、ギーが嬉しそうにくるくると宙を回り、突然ハジの背中を押した。
「うわっ」
 声とともに、ハジがナギに覆い被さった。
「わ、悪い!」
 ハジは顔を真っ赤に染め、すぐに起き上がった。
「い、今のはギーが悪いわ」
「そ、そうだ! おい、このいたずら龍!」
 ギーは首を傾げ、にゅうにゅう鳴くだけ。ハジはわなわなと唇を震わせ、ギーに軽くげんこつを食らわせた。
 キーッ、キーッ
 抗議の声を上げるものの、嬉しそうにハジのまわりを踊るように動くギーを見て、二人はどちらからともなく声をあげ笑った。
「笑ったら腹が減ったな。ギー、果実取ってきてくれねえか? 俺ら、まだちゃんと動けねえし」
「あ、名前……」
「あ?」
「ギーの名前。やっと呼んでくれた」
「別に呼ぼうが呼ぶまいがいいだろ。ここには、俺とこいつとお前だけなんだから」
「それでも、おいとかお前とかで呼ばれたくないわ」
「そういうもんかね」
 めんどくさそうな顔に何か言い返してやりたかったが、まだそこまで頭が働かない。元気になったらまた問いただそうと、口を噤むことにした。
「髪、焦げちまったな」
 ふいに、ハジの手がナギの髪に触れ、ナギは心臓が口から飛び出るかと思った。肩くらいまで伸びた髪は、焦げて長さががたがたになっていた。
「きれいな髪なのに、悪いことしたな」
「べ、べ、別にいいよっ、また伸びるしっ!」
 思わぬ優しい言葉に、慌てて手を振った。今まで女の子扱いをされてこなかったのに、なぜ急に優しいことを言うのだろう。
「どうしたの、急にそんなこと言いだして」
 ゆっくり起き上がろうとすると、ハジの手が支えてくれた。発熱のせいか、少し熱い。
「お前が生きててくれて、嬉しいんだ」
「えっ」
「ずっと疎ましいと思ってた血が、助けたいやつの役に立ったことが嬉しいんだ」
「あ、なんだ、そっちか」
「そっちってなんだよ」
「なんでもない」
焦げた髪を振り、忘れてと言った。
「今までは、搾取されるばっかだったからな。しかも、自分の病はちっとも治してくれねえ。そもそも、病にかかることで目覚める能力なんておかしいだろ?」
「そうだね」
「でも、お前の役に立てて、やっとこの力を得てよかったって思った。何て言うか、自分が救いたいと思ったやつを救えたことが、俺の救いになったんだ。こう思えたのは、お前が今、こうして生きてくれてるからだ。ありがとな、生きてくれて。戻って来てくれて、ありがとな」
 ハジの言葉に、ナギはまた泣きそうになった。
「ああもう、すーぐ泣く」
「な、泣いてないわよ!」
 目頭を拭い、涙をぐっとこらえた。
「お前、俺が側にいねえとすぐ泣くんだな。しょうがねえ、もうちょっと生きてやるか」
「だから、泣いてないってば!」
「へいへい。まあ、あとはあれだ、あー、火起こし」
「……え?」
「お前が火起こしできるのを見届けるまでは、死んでも死に切れねえわ」
「うっ……」
「こんなに手のかかるやつに出会ったことねえからな。何をどう教えたらいいのか分からねえ」
「……申し訳ございません」
 手で顔を覆う。情けなくて顔を隠したつもりが、ハジの言葉が嬉しくて、口元が緩むのを止められなかった。
「まあ、気にすんな。お前に合ったやり方を、一緒に探して行こうぜ」
 背中をポンと叩くと、ハジは泉に向かって歩き出した。気付けば、その背に抱き付いていた。
「っ、何だよっ」
「……確認」
「何の」
「生きてるかどうかの、確認」
「……見りゃ分かるだろ」
 苦笑しつつ、前に回したナギの手を優しくなでてくれた。
「ハジ、助けてくれてありがとう」
「……おう」
「でも、無茶しないで。もし、意識が戻ってあなたがいなかったら、わたし、自分を一生許せないから」
「そりゃ、お互い様だろ。俺だって、火だるまの時に同じこと思ったからな」
「え……」
「な、何でもねえよ! つか、今日のはあれだ、借りを返しただけだ! 借りを作ったまま死なれたら、俺が困るからな!」
「借りって……」
 ふふ、と軽やかに笑う。
 もしかして、ハジが自分のことを好きでいてくれるのではとちょっぴり期待したのだが、それは思い違いだった。がっかりするところなのに、ナギはおかしくて仕方がない。抱きついた自分を受け入れてくれている、それだけでも十分に嬉しかったのだ。
「ハジ、生きようね」
「っ……」
「ハジの血の力でも、わたしたちの病が治ることはなかった。だったら、いつか来るその日に怯えるより、今を自分らしく生きよう? ハジと一緒なら、きっとできると思うの」
「お前……」
 にゅう!
 ギーが、すかさず自分もいると主張する。
「ふふ、そうね、ギーも一緒よ。皆で生きていけば、きっと楽しい毎日が送れるわ」
「……そうだな。助かったのも何かの縁だ。生き切ってやるか」
「うん!」
 二人は向き合うと、こぶしを作り、軽くぶつけ合った。
 その晩。
 ナギは夢を見た。暁の泉に来て初めて夢を見た。里にいた時は、毎晩のように夢を見ていたのに、ここでは初めてのことだった。
 夢の中で、ナギは大人の女性に成長していた。黒い髪は腰まで伸び、ぺったんこだった胸はいくぶんかふくらみを増していた。手や腕にあった龍皮病の硬化はなぜかなくなっていて、木登りでできた古傷もなくなっていた。
 辺りを見渡すと、そこは見たことない光景が広がっていた。膝くらいの高さの柔らかい草が延々と広がり、風が草々を気持ちよさそうになでている。
 ナギの長い黒髪も、さらさらと風に泳いでいる。耳に髪をかけ、ナギは風に身を任せた。
「おかあさまー!」
 どれくらい佇んでいただろうか。向こうから小さな女の子が走ってきて、ナギに抱き付いた。
「え、あなた、誰!?」
「何言ってるの、おかあさま。わたしのこと忘れちゃったの?」
 その子はナギの小さい頃にそっくりで、まさかこれは母の若いころの夢なのかと思った。が、女の子がきゃらきゃらと笑いながら駆け寄った男性の外見を見て、すぐに違うと分かった。男の人が、父と違って、金髪でほっそりとした体つきをしていたからだ。
「おとうさま!」
 女の子が呼んだのは、何故かハジだった。それも、今の姿のままだった。
「え、ハジ?」
「どうしたんだ、ナギ。ぼーっとして」
 いつものつんけんした言い方はどこへやら、とても優しい声で微笑みかけてくれた。娘が「おとうさま、おとうさま」と言ってじゃれつくのを愛おしげに抱き上げ、頬擦りしていた。その姿は、いつもの彼とはまったくの別人で、そこでこれは夢なのだと分かった。
 途端、ナギはとても悲しくなった。自分たちはきっと大人になるまで生きられない。こんな未来はあり得ない。それが悲しかった。
(ううん、違うわ……)
 ナギは、自分の本心に気付いた。ハジと結婚して子供を産む未来が現実ではないこと、ハジと夫婦である未来が現実ではないことが悲しいのだ。
 そして、再認識した。ナギは、ハジが好きなのだ。
 好きだからこそ、この夢がナギのただの願望だと分かって悲しいのだ。
 風景が少しずつぼやけてきた。目覚めの時が近いらしい。
「お願い、もう少しだけ夢を見させて! 消えないで!」
 思い切り手を伸ばしたが、ハジは抱き上げた娘とともにどんどん遠のいていく。
 空からたくさんの光が降ってきて、まぶしさに思わず目をつむると、急に色んな音が聞こえて来た。そこで、意識が一気に浮上した。
 目を開けると、目の前にいつもの住居の天井が見えた。
「……夢?」
 瞳からぽろぽろと涙が溢れるくらい幸せなのに、なぜか涙が止まらない。つい先ほど見たばかりなのに、なぜもう覚えていないのだろう。すごく歯がゆくて、唇を噛み締めた。
 火が爆ぜる音がする。首だけを動かせば、暗がりに焚き火が煌々と輝いていて、火の向こうにハジの眠る姿があった。今夜は珍しく少し冷えるから、火を焚いたまま寝ようと言っていたことを思い出した。
 そういえば、夢にハジが出て来た気がする。それくらいしか思い出せないのに、涙がさっきからあふれて止まらなかった。
「ハジ」
 小さく名を呼ぶも、寝ていて返事はない。
(……まさか、死んでないよね?)
 心臓がひやりと凍え、脇にじっとりと冷たい汗が流れる。二度も彼の死線を経験しているせいか、すぐに不安に駆られてしまう。
「ハジ……?」
 そっと近づき、焚き火の灯りを頼りに顔を覗く。鼻息が聞こえ、胸がゆっくり上下しているのを確認し、ナギは長いため息を静かに吐いた。重いものが胸の中からが出ていく感じがして、少し楽になった気がした。
(よかった、生きてた……)
 膝を抱え、しばらく側でハジを見つめた。
 胸の奥、ずきんと鋭い痛みが走る。硬化が体の中でまた広がっているのだろう。目に見えない分、体の中の変化はより不安が募る。
 炎をじっと見つめる。そう言えば、ナギが倒れる前に送り火をすると言っていたことを思い出した。
「火によって魂の方舟である肉体が浄化され、魂が来世に旅立てる、だったかな」
 では、生きている間に肉体を浄化するにはどうすればいいのだろう。病という名の命を脅かすものを浄化するにはどうすればいいのだろう。
 浄化しなければ来世に旅立てないのなら、何故浄化しなければいけない場所に生き物は住んでいるのだろう。神さまは、生き物を作るときに場所を間違えてしまったのだろうか。そもそも、神様も間違うのだろうか。
「神さまが本当におわすなら、わたしたちを病気になんかしないし、ハジにつらい試練ばっかり与えたりなさらないわ」
 膝を強く抱き、地面に向かって吐き捨てるように呟く。恨みがましいこの言葉自体が浄化されるべきものなのだとしたら、本音を抱くこと、本音を言うこと自体が罪になる。
 神さまは、乗り越えられない試練は与えないというが、死に向かって一直線に進むしかない自分たちに、一体どんな試練を乗り越えよと言うのだろう。
「……だめだ、暗いことばっかり考えちゃう」
 こういうときは、泉に頭から浸かってしまうに限る。なるべく足音を立てないようにして、住居を後にした。
 外に出ると、いつもより少し肌寒い風が吹いていて、ナギは少し体を震わせた。
 腕をさすり、月光が照らす夜道を泉に向かって歩き出す。
 うるる……
 屋根の上で眠るギーのいびきが聞こえ、心が少し温かくなった。
 昨日、同じ道を歩いたからか、体がちょっと道に慣れていて、木の根が張り出した悪路も戸惑わずに歩けた。
 林の隙間から地上に降る月光が、葉や草、泉をきらきら輝かせ、思わず見惚れた。
 地上はこんなにも美しいのに、ここに住む生き物は汚いのだろうか。そもそも、汚いとは何なのだろう。
 何を送考えてもざわつく心を鎮めるため、ナギは衣を脱ぎ、頭から泉に浸かった。肌寒い気温のせいか、水も冷たく感じる。最も、病のせいでいつも寒いから、多少冷たくても今さらどうということはないのだが。
 ぶくぶくと水泡が泉に浮かんでは消える。息苦しさは、ナギが生きていることの証だ。
 胸がまたズキンと痛む。小さく呻き、ナギは泉から顔を上げた。
「わたし、もうすぐ死ぬのかな……」
 口に当てた手を胸に当てる。まだ、心臓は動いている。どくどくと正確に脈打ち、まだ生きているぞと訴えてくる。
「っ……、なんでだろ、痛いっ……」
 何度も水をかけたが、痛みがとれる気配はない。
「やだ……、痛いのやだよ……」
 胸が震え、涙がこぼれる。
「死にたくないっ……!」
 本音が涙となってどんどんあふれ、止めようとしても止まらなかった。
 里にいたころは、こんなに泣かなかった。女の子たちにバカにされても、泣いたことはなかった。なのに、ここではすぐ泣いてしまう。涙腺が壊れてしまったのかというくらい簡単に涙がこぼれる。そんな自分が嫌でたまらなかった。
 泣いたくらいで死ぬわけじゃないし、誰かに迷惑をかけたりもしない。泣いたっていいじゃないかと呟く心の声に、ナギはそんなことないと首を振った。
「だって、わたしが泣いたらハジが心配するもの」
 だから、なるべく泣かないようにしないとと思っている気持ちに、はっとなった。
 ナギはハジに悪い影響を与えないため、泣くのを我慢したいと思っている。なのに、涙は本音を無視するナギに憤ってこぼれ落ちる。
「そうか……。わたしが嫌なのは、自分にうそをついて自分らしく生きないわたし自分自身なんだわ……」
 思い返せば、胸の痛みは、いつもナギの気持ちが落ちている時に起こる。気持ちが落ちるのは、ナギが自分をいやだと感じている時だ。自分をいやだと感じるのは、こんな自分を認めたくない、受け入れたくないと思うからだ。
 いつも笑って元気な自分をハジには見せたい、そう願っている。一方で、心のどこかで、そんな自分では疲れてしまうと叫んでいる。
「わたしは、わたしに嘘をついてるから疲れるんだ」
 涙を拭い、手のひらを見る。ハジを助けるために火傷を負い、そのせいで硬化した部分が今も龍の鱗のようにごつごつしている。ハジの血をもってしても、ちっとも軟らかくならないが、ナギはこの傷を誇りに思っている。恐れることなく、ハジを助けることができた証だからだ。
 次に同じことが起こり、手のひらすべてが硬化して機能を失ったとしても、絶対同じことをすると思うし、絶対助けると誓っている。
 手のひらの傷は勲章に感じるのに、胸の痛みがいやなのは、自分に嘘をついているから。だから、胸の痛みはいやなのだと分かった。
「わたしの感情が、わたしの好き嫌いが、わたしがわたしを拒む気持ちが、いやだって感情を生んでるのかもしれない」
 ひとつの結論が出た時、ナギの中でもやもやしていた霧が晴れていく気がした。
「生きている間にできる〝浄化〟って、自分で自分の中を整えることなのかもしれないわ」
 小枝を踏む音に振り返ると、ハジが手をわたわたと動かしながら背を向けた。
「わ、悪い、水浴びしてると思わなくてっ」
「大丈夫だよ、まだ暗くてよく見えないと思うし」
「そういう問題じゃねえし……」
 ごにょごにょつぶやくハジに、「もしかして起こしちゃった?」と尋ねる。
「いや、自然と目が覚めたんだ。そうしたら、お前がいなかったから、心配になって探しに来た」
「っ……、ありがとう。ごめんね、心配かけて」
「いや、俺も早とちりした。いなかったから、死んじまったのかと思った」
「猫じゃないんだから、死ぬ時に隠れたりしないわ」
「そうだよな」
 苦笑し、ハジはわしわしと髪の毛をかいた。
「でも、いねえと思ったら、体が勝手に動いてた」
「え?」
「へ、変な意味じゃねえぞ。共闘相手として、いなくなったら困るって話だ」
「あ……、そうだよね」
 以前と同様、盛り上がった気持ちは一瞬ではじけ飛び、期待した分だけナギの気持ちはへこんだ。
(嫌だなって思うのは、ハジのことが好きだから。ハジと両想いになれたらいいのにって気持ちが叶わないから。でも、否定しちゃだめ。これがわたしの本音だから)
 胸をさすり、気を取り直してハジを見据えた。
「ねえ、よかったら送り火を見せてくれない?」
「送り火を?」
「うん。やるはずだったのに、わたしのせいでできなくなっちゃったでしょ? ハジのお話聞いて、ずっと興味があったの」
「見世物じゃねえぞ」
「分かってる。言い方が気に食わなかったらごめん。でも、見ておかないといけない気がして。わたしのためにも、ハジのためにも」
「……お前、何かあったか? 雰囲気変わったな」
 ハジが首を傾げる。
「死線をくぐり抜けたからかもね」
「戦士みたいなこと言いやがる」
 くっ、と喉の奥で笑うと、「いいだろう、見せてやるよ」と笑った。
「ただし、日が昇ってからな。こう暗いと、送り火に必要な材料を探しに行けねえ。俺も身を沐浴しねえといけえねえし、明日の朝でいいか」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「お前も、それまでにちゃんと心身を清めておけよ」
「でも、わたし、虎石族の清め方を知らないわ」
「お前の一族の身の清め方があるなら、それでいい。大事なのは手段じゃなくて、送りたい魂のために整えることだからな」
「魂に対してきちんと整えるってことね。分かった」
「俺は、一旦住居に戻る。夜が明けるまで寝るわ。お前も、終わったら戻って来いよ」
 ナギは頷き、里で教わった身の清め方を思い出そうと視線を上げると、「おい」と話しかけられた。
「なに?」
「……俺が死にたくねえと思ったのは、お前のせいだからな」
「え?」
「お前が俺に言ったんだ、生きろって。最初に出会った時、水を飲ませながら言ったこの言葉、俺は忘れない。だから、お前も生きろよ。俺の知らないところで死んだら、許さねえからな」
 背を向けたまま早口でまくしたてると、足早に去って行った。
「聞こえてたんだ、ハジに、わたしの声……」
 目の前のハジに自分を重ね、生きろと何度も言い続けた言葉は、ハジに届いていたのだ。
 心の中で温かいものが浮かんでは、それを違う意味で期待する別の心を宥める。
 上がったり下がったりする心を落ちつかせるため、ナギは両頬を思い切り叩いた。ごつごつした手の攻撃力は思いの外高く、じんじん痛む頬がピキッと音を立て硬化してしまった。
「……今は、身を清めることに集中するのよ」
 ナギは目を閉じ、体の中のいらないものを吐き出すように、深く、長く呼吸を繰り返した。右手で左腕を三回、続いて左手で右腕を三回清め、最後に足元、へその下、胃、胸、喉、額、そして頭頂部に水を三回ずつかけ、全身を清めた。
 龍空族が身を清めるのは、死者を埋葬する前。龍空族は、高い木の上に死者を埋葬する。そうすることで、魂が空に還りやすくなると考えられているからだ。身を清めるのは、死者に安らかに空へ戻ってもらうためで、死体に触れる者たちの邪気が移らないよう心身を清めることが決められていた。
 里にいた頃は、こういった里の決まりや掟がうっとうしくてかなわなかったが、里から離れた今、改めてしきたりに触れてみると、自然と体が覚えていて、自分はやはり龍空族なのだと感じる。
 里からどんなに逃れようとも、自分が龍空族の人間であることに変わりはない。そもそも、龍空族が嫌だったのではなく、自分らしく生きることを、理由なく咎められることが嫌だっただけで、一族に恨みはない。
 送り火で、自分の中のいやな気持ちを浄化できないだろうか。ハジに聞いてみようと思ったが、私情をはさむのはいけない気がした。
 住居に戻ると、ハジが再び眠りについていた。火が少し小さくなっている。着火剤である木の皮を、火が消えないようそっとくべる。火は瞬く間に皮に着火し、徐々に勢いを取り戻していった。
 火を挟んだ反対側に横になり、ハジを見つめる。
(ありがとう、ハジ。探しに来てくれて)
 明け方まではまだ時間がある。ナギも眠りにつくことにした。
 そう言えば、夢を見たせいで目が覚めたことを思い出した。いい内容だったが、泣くほど切ない夢はこりごりだ。今は朝までぐっすり眠りたい。目を閉じると、ナギは静かに呼吸を繰り返した。
翌朝。
 空はいつもより高く、澄み切った青色が心まで清めてくれるようだ。
 ハジは沐浴をする前に、住居のすぐ近くの開けたところに送り火のための炉を作った。
「住居の炉を使わないの?」
「儀式専用じゃねえからだ。あそこは、俺たちが食ったり暖を取るためのものだからな」
 だから、神聖な場所を別に作ったのだとハジは言った。
 炉を作り終えると、ハジは沐浴しに泉へ向かった。戻って来なかったらどうしようと心配になったが、今は大事な送り火の前だ。意識をぶらさないよう、ナギは心を強く持ち、目をつむって心の中をからっぽにするつもりで深呼吸を繰り返した。
 ハジが戻ってくると、思わずほっとため息が出た。これで心置きなく儀式に立ち会える。
「なんだ、人の顔じろじろ見て」
「ううん、なんでもない」
「そうか。……じゃあ、始めるぞ」
 その合図で、送り火の儀は始まった。
 ハジはを空を見上げ、火打石をゆっくりと三回打ち鳴らした。火を起こすためではなく、義を始めるための合図らしい。
 その後、用意した炉に火を起こすため、一心不乱に火打石を打った。チッ、と火花が走り、炉に用意した着火剤に火がともる。火は次第に勢いよく着火剤を燃やし、炎へと成長した。
 白い煙が迷いなく天に向かって一直線に空へ昇っていく様は、まるで空へ昇るための道のようだ。目には見えない魂たちが、そこを通って空へ還っていくのだろう。
 ハジは、炎が安定するのを見て、あらかじめ用意してあった住居の灰を炉のまわりに少しずつかけていった。灰には、狩りで採った動物たちの骨が混じっている。それをまくことで、自分の血肉になってくれた動物たちの魂を送ろうとしているのだ。
「お前も、何か浄化したいものがあったらこの炉のまわりに置けよ」
「……しゃべっていいんだ」
「大丈夫だぞ。……ああ、龍空族は儀式の時はしゃべったらだめなのか」
「うん。魂が言霊につられてしまうからって教え込まれたわ。この世で最も強い魂は、欲にまみれたわたしたちの魂だからって」
「なるほどな。問題ないから、気にしなくていい。それより、燃やすものはあるのか?」
「ものじゃなく、思いも燃やせるの? わたしは、病になって生まれた色んな感情を燃やしたい」
「心の中のものを、葉や草に移してそれを燃やせばいい。思いは念じるだけで移ると言われている。言葉に出さなくてもいいが、出せばより強固になる。依代にする植物は……、ああ、あの辺のがよさそうだ。あれなら、干さなくてもよく燃える」
「ありがとう、やってくる」
「一回の儀で浄化できるのは、三つまでだ」
「分かった」
「三つね、分かったわ」
 ナギは、さっそくハジが指定した草を一本むしり、目を瞑った。
「いやな自分を受け入れたくないという気持ちが浄化されますように」
 次に新しい草をまた取った。
「わたしを縛る掟をいやだと思う気持ちが浄化されますように」
 最後の葉を取ると、息を整えこう言った。
「ハジを苦しませるものを憎む気持ちが浄化されますように」
 草を握り、ハジの元へ戻る。火は今も勢いよく燃えていて、煙は火の粉とともに風に乗って空高く昇っている。
 炎に向かって一礼し、草を炎に投じた。草はよじれながらじりじりと燃え、やがて燃え尽きると、灰と化して空に舞った。
「火に乗って旅立ってるようね」
「ああ。だから、〝送り火〟って言うそうだ」
「そう言えば、ハジはなんで狩りで採った動物たちを浄化したいと思ったの?」
「あいつらは、俺の血肉になってくれたおかげで、俺の命が繋がっている。あいつらのおかげで、俺はまだ死なずにここにいられる。だから、あいつらの魂を浄化してやりたかったんだ。……元気なうちにやれてよかった。これで、心残りはねえよ」
 煙をいつまでも見つめる姿に、ナギは胸が切なくなった。死にたくないと言いつつ、心のどこかでいつ死が訪れても大丈夫なように覚悟を決めているハジの姿が、とても気高いもに感じられた。
 ナギは、ハジが死を受け入れていることを受け入れられない。ナギが口出しすることではないが、生きろと言った自分の言葉を受け取ってくれたハジに、もう少し生きて欲しいと願うくらいはいいではないかと思う。
(さっき浄化したばっかりなのに、いやだって気持ちはすぐ浮かぶわね)
 そんなナギに神さまは試練を与えたかったのか、この日を境に、ハジは再び発熱を繰り返すようになった。食欲も細り、みるみるうちにやせ細っていった。
 ハジが久々に起き上がったのは、それから一週間後のこと。今日は、少し調子がいいからと、ゆっくり体を起こした。
「ハジ! 起きて大丈夫なの?」
「ああ。今日は、少し調子がいい。……火起こしの練習、止まってただろ。今からやらねえか?」
「どうしたの、急に」
「お前がこのまま火起こしができないままなのが、やっぱ心残りでな」
 緩やかに微笑む顔に覇気がない。
「わたしのことはいいから、自分のことを優先して」
 ハジの顔が赤い。ナギは、ハジに横になるよう促した。
「このまま見ててやるたから、火打石を打つとこ見せてみろ」
 ハジには休んでいて欲しかったが、心残りだと言われてはやらないわけにいかない。ひとつ頷き、石を打った。カッ、カッ、とこすれる音はするものの、火花は全然散らない。
「下手くそ」
 小さく笑い、ハジが隣にやってきた。かすかに触れた腕に心臓がドキッと跳ね上がる。その腕は異様に熱くて、呼吸が苦し気だ。つらいだろうに、起こさせてしまった自分に腹が立った。
「石打つのも力がいるからな、お前の握力じゃ難しいのかもな」
 ナギから石を受け取ると、力強く石を打った。カツッ、カツッ、とナギとは違う音が立つ。火花がチリッという音と共に飛び、着火剤となる木の皮が一瞬赤く光った。すかさず、火が消えないよう少しずつ息を吹きかけ、火を大きくしていく。
「……こんな感じだ。俺が打った石の音、覚えておけよ。あの音が出せりゃ、お前の力でも火を起こせると思うぜ」
 まるで、いなくなる前提のような言葉に、耳を塞ぎたくなった。でも、つらいのに必死に教えてくれるハジの心を無下にしたくない。ナギは小さく、何度も頷いた。
「分かった、やってみる。しゃべって疲れたでしょう。お水飲む?」
「水より、あぶった果物が久々に食いてえ」
「分かった。取って来たのがあるから、作るね。できるまで待ってて」
 ハジを再び寝かせ、その側で果物をあぶり始めた。あぶるのは何度もやってきたから、今ではすっかり手慣れてしまった。
「……あぶったのもうまいな」
 できた果物を渡すと、少しずつ食べてくれた。
「あぶった果物が作れるように、火打石の正しい使い方を覚えるね。でも、わたし一人じゃ当分うまくできそうにないし、長生きして私に教えてね」
「なんだそりゃ」
「新しいの、食べる?」
「ああ」
 実を渡した時、わずかに触れた手が腕と同じくらい熱かった。その熱がうつったのか、触れたところからナギも発火しそうなほど全身が熱くなった。
「お前、顔赤いぞ。大丈夫か?」
「え、きゃっ!?」
 顔を覗き込まれ、思わず後ずさりする。
「何だよ、化け物見たみたいな反応しやがって」
「だ、だって、寝てると思ったハジがすぐ側にいるんだもん! びっくりするわよ」
「近付かれるのが嫌ならそう言えって」
「嫌じゃないから困ってるんじゃないっ」
 思わず出た本音に泡立て口を塞いだが、ハジは別に気にしていないようだ。それでも、さつまきのでハジが好きだとばれたらどうしようと、心臓がドキドキして止まらない。
(好きだってばれたら、めんどうくさいって思われるかもっ……!)
 一度言った言葉は、取り消すことはできない。ハジに気持ちがばれるのは時間の問題かもしれない。それならば、いっそのこと好きだと打ち明けてしまおうか――。
 そう思った矢先、隣で音がした。
「ハジ?」
 見れば、ハジがうつ伏せに倒れていた。
「ハジ? ハジ、しっかりして!」
 話しかけるも、返って来るのは苦しそうな呼吸音だけ。
 せめて横寝にさせようと触れた肩が、さらに熱い。硬化した手のひらでさえ熱さを感じるのだ、もしかしたら火だるまになったあの時のように、発火寸前の体温なのかもしれない。
「ハジの体、冷やさないと」
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、ナギは大きめの葉を水を入れた瓶に浸し、服の上からそれを当てた。葉は当てたそばから温くなり、葉ではどうにもなりそうにない。
「ハジ、少しだけ頑張って」
 ハジを起こし、肩に担ごうとして心臓がざわっとした。明らかに男子の体重とは思えない軽さだったからだ。背中も、以前と比べ物にならないくらい薄くなっている。確認のために抱き付いた時は、あんなにしっかりしていたのに。ナギは泣きそうになった。
 うにゅっ、……うぬぅ、うぬぅ
 ギーは、久々に二人して住居から出て来たのを喜んだが、すぐにハジの様子がおかしいことに気付いたのだろう、弱々しい声で問いかけるようにハジに向かって鳴き続けた。
 軽くなったとはいえ、男子を担ぐのはやはり大仕事だ。はあはあ、と荒い息を吐きながらなんとか泉に辿り着いた。
 泉の側に横たわらせ、上半身に何度も水をかける。時折水を飲ませ、がんばれと声をかけた。
「いたっ……」
 久々に胸の奥に痛みが走る。今はまだいやだという気持ちに囚われている場合ではない。目の前のハジにだけ集中しようと、心を引き締めた。
 日が沈み、月が昇っても、ナギは水をかける手を止めなかった。夜が明けるころ、ようやくハジの症状が落ち着いて来た。だが、意識は戻らず、昏々と眠る様はまるで眠っているようで、このまま目を覚まさないのではと不安になるほど静かだった。ナギは、ハジの胸が上下する様を朝晩関係なく何度も確認しては安堵するということを繰り返した。
 看病を初めて三日目。額に手を当てるとまた熱が上がっていた。
「どうしよう……。何をしたらいいんだろう……」
 ナギ自身も、寝不足と看病疲れで病が進行し、徐々に体が重くて意識もぼんやりし始めていた。
 目を開けると、辺りに早朝独特の凛と澄んだ空気が漂っていた。あのまま眠っていたらしい。いつの間にか、ハジに寄り添う格好で倒れていた。普段なら恥ずかしいと思うが、思考力が鈍っていて何も感じない。きゅう、きゅうと心配げに鳴くギーに答える余裕もなかった。
 ハジの背中に手を当てる。すっかり分厚くなった手のひらから温もりが伝わり、ナギは震える身体を温めたい一心でその背に抱き付いた。
(あたたかい……)
 温もりがもっと欲しくて、ハジに背中からぎゅっと抱き付いた。冷え切っていた体の芯が少しずつ温かみを帯びていく。ハジの熱がナギを温めてくれるように、ナギの冷えた体がハジの熱を冷ましてくれればいいと願いながら、また目を閉じた。
 日が暮れかけた頃、うっすらと目を開けた。ハジのおかげで体が温まり、体の機能が少し回復してきたようだ。よろよろと起き上がり、水を飲もうと泉に顔を近付けはっとなった。頬の硬化が広がっているのが見えたからだ。
「……こんな醜い顔、ハジには見られたくなかったな」
 焦げて散り散りになったまま伸び続けているぼさぼさの髪も見て欲しくなかった。以前、きれいだと褒めてくれたが、もっときれいな状態で見て欲しかった。
「……今は、ハジの看病が大事でしょ」
 自分に言い聞かせ、泉に顔をつけて水をがぶ飲みした。体の底から何か熱いものが広がり、ナギの意識はようやくいつも通りに戻った。
「このお水、こんなにすごいのに病は治せないなんて、とんでもない病にかかったものだわ」
 それでも生きている自分の体を抱き締める。病のせいで、相変わらず寒い。
「火、起こしたいな……」
 そういえば、住居を出るときにとっさに火打石を掴んだことを思い出した。できるか分からないけれど、やってみる価値はある。
 簡易の炉を作り、ハジの手付きを思い出しながら石を打った。が、やはりうまく火花が飛ばない。諦めず何度も打ち鳴らしていると、
 カツッ、カツッ
 ハジの側にぴたりと寄り添っていたギーが、突然こんな鳴き声を発した。
「どうしたの、ギー?」
 カツッ、カツッ
 カツッ、カツッ
 ギーの鳴き声を聞いているうち、ハジの声が脳裏を過ぎった。
『俺が打った石の音、覚えておけよ』
「……そうか、ハジの火打石の音! ありがとうギー。すごく助かったわ」
 うなん
 嬉し気な声を上げると、ギーは再びハジに寄り添い、目を閉じた。
 ハジの音がどうやったら出せるか分からず、右手と左手を逆にしてみたり、こする方向を変えたりと試したが、いずれもカッ、カッという軽い音ばかりで火花が飛ぶ気配は相変わらずない。
 疲れてぼんやり石を眺めていると、尖っていた石が少し丸みを帯びていることに気がついた。
「……尖ったところが少なくなってる。これが原因かも!」
 急ぎ尖った石がないか見渡したが、辺りにあるのは角が取れた丸いものばかり。そう言えば、以前ハジが予備を用意しておくと言っていたことを思い出し、住居に急いで戻り予備の石を探した。
「……あった!」
 動物の皮をなめして作られた袋の中に、尖った石がいくつか入っていた。その中から一番大きなものを掴み、ナギはすぐさま泉に取って返しわさっそく試した。
 カッ、カツッ
 何回に一度、ハジと同じ音が出るようになった。
「やっぱり! 石の角が取れていたのが要因のひとつだったのね!」
 石の角が取れたのは、ナギが何度も打ったからだろう。気を取り直し、再び手元に集中した。
 何度かに一度いい音が鳴るが、そもそも力のいる作業だ。石を変えてすぐにできるものではないらしい。
 手の皮がこすれ血が滲んだが、すぐさま皮膚が硬化し血は止まった。作業に集中するにはちょうどいいと、むしろ硬化を歓迎した。
 病が進めば進むほど、病に感謝する自分がいることにナギは驚いていた。里を追い出され、命からがらこの地に辿り着き、一人孤独に死ぬのだと己の運命を嘆いたとき、ギーが現れ、ハジと出会った。共に過ごし、心を通わせるうち、ナギにとって二人は家族になった。かけがえのない存在となった。
「……それが失われるのを惜しんで、何が悪いの」
 ぽたりと手に雫が落ちる。
 ハジもギーも、大好きな存在だ。愛する家族だ。だから、失いたくない。ずっと一緒にいたい。 けれど、それが叶わないことは分かっている。
 命は有限だ。だから、命が尽きるそのときまで、瞳に闇が訪れるまで、その命が失われることをどうか惜しませて欲しい。
「あなたが、好きだから」
 ハジの手を握り、そして唇を寄せた。
「できれば送られる側でいたいけど、文句言わないようにしなきゃね」
 だって、二人とも死ねば、ギーは一人ぼっちになってしまう。ここに取り残されるギーを想像して、胸がツキンと痛んだ。
「ハジが元気になったら、ギーを空に返す訓練をした方がいいか聞いてみようかな」
 龍は、本来地上にいるべき生き物ではない。人前に姿を現さない生き物をどうやって帰すのか分からないが、二人で考えればなんとかなるはずだ。
 どれだけの時間を費やしたか分からない。無心で音だけを追っていると、突如赤い光が暗がりに飛んだ。
「っ、火花が……!」
 文字通り火の花が一瞬だけ開き、すぐに消えた。
「わたしでも、できるっ……!」
 世界が一気にきらめいて見えた。
 一度できたのならもう一度だってできる。ナギは、同じように無心で音だけを追った。
 カツッ、カッ
 カッ、カッ
 カツッ、カツッ
 正しい音が鳴ったとき、また目の前で火の花が咲いた。飛び散った先の葉から焦げくさいにおいがし、すぐさま集めておいた葉を被せたが、しばらくしてにおいは消えてしまった。赤い光も見えなくなったので、恐らく消えてしまったのだろう。
「途中までうまくいってたのに……」
 それでもめげずに挑戦し続け、種火を作ることができたのは、空が少しずつ明るくなり始めたころだった。
「やった……、やっと、種火が灯った……!」
 火はパチパチと音を立て、少しずつ赤い面積を増やしていく。そして、見慣れた焚火になっていく様を見て、ナギは一人拳を天に突き上げた。
「できた……! ハジ、わたし、できたよ!」
 深く眠ったままのハジを見つめる。胸が昨日よりゆっくり上下していて、顔も少し赤みが引いていて、胸をほっと撫で下ろした。
 安心したら、途端体から力が抜けた。今は一刻も早く自分を労わってあげたい。ナギはその場に横たわった。
 手を空にかかげ、しげしげと見つめる。火石打ちのせいで、そこはすっかり龍のうろこのようにぼこぼこと厚い皮に覆われ、とても女の子の手には見えない状態に変化していた。顔や体は、冷水を浴び続けたのかというくらい冷たいけれど、ナギは今生きている。硬化や冷えは、ナギがやり通してきた証なのだ。恥じることはない。
 天にかざしていた手を火に向けた。冷たすぎるそこがじんわりと温まり、全身の筋肉から余計な力が抜けていく。火が爆ぜる音に耳を傾けていると、心まで温かくなっていく。
「火って、こんなにも温かいのね」
 キラキラ輝く炎を見つめる。火は、温かいだけでなく、食材を美味しくしてくれる。闇夜を照らしてくれる。心を落ち着かせてくれる。
 一方で、命を燃やし尽くす恐ろしい一面も持っている。一度燃え上がった炎は、目の前のものをすべて燃やし尽くさねば止まらない。ハジを、火だるまにしたように――。
 この世のすべては、表と裏が一体となって存在している。そして、人間は自分に都合のいいことばかりに目を向け、悪いことはすべてよくないこととして忌み嫌い、避ける。この判別こそが、表と裏を作り出すのだ。
 この判別が、満足いく死を妨げるものであると、ナギはここでの生活を通して知った。そして、この気付きこそ、龍の幸運だと今は感じている。
 病を得て、自分は世界に生かされていることを知った。誰かと力を合わせ生きることの大切さを学び、そして誰かを愛する喜びを知った。
 ハジとギー、大好きな二人がいてくれたから、ナギは変わることができた。一人だったら、龍の幸運を呪い、病を呪い、里を恨み、父を恨み、この世のすべてを恨み、最期の最後まで自分を受け入れられないまま死んでいただろう。
 ハジも、少しは変わったと思う。便利だからという理由でナギとの共闘に賛同した彼が、今ではナギのことを必要としてくれている。それがナギを好きだという感情によるものではないと分かっていても、一緒にいてくれることがただただ嬉しかった。
 彼の気持ちが変わるかも、と期待しつつも、たとえ変わらなくても、ナギはハジのことをずっと好きでい続ける自信がある。幼い頃、龍空の里で『元気があっていいね』と、ありのままのナギを屈託のない笑みで褒めてくれたあのときから、ハジはナギを救ってくれた。
 そう、ハジは、ナギの救い人だ。
「ハジ、がんばって」
 ハジの首や背中に手を当て、意識が戻りますようにと、ただそれだけを願った。
「う……」
 木々の間から朝日が零れ始めるころ、昏々と眠っていたハジが呻き声をあげた。
「ハジ? ハジ! 気が付いた!?」
 声をかけたが、返事がない。また、すぐ意識を失ったようだ。それでも、ナギの心は少し明るくなった。
 まだ熱が下がり切っていないのだろう、相変わらず胸が忙しなく上下している。彼の首や額に当てているナギの手はすっかりぬるくなっていて、どれだけ彼の熱が高いかが分かり、胸がぎゅうと苦しくなった。
「ハジ、がんばって……!」
 水でハジの唇を湿らせる。それを飲み込むのを確認し、また唇を湿らせた。ハジは水を飲もうとしている。生きようとしている。生きる意志を持っている。
 ハジの身体に、再び水をかけ始めた。この手が施せるものがどれだけハジの熱を取り除けるか分からないが、ナギは信じてかけ続けた。
「ハジ、相談したいことがあるの。それとね、聞いて欲しいこともあるんだ」
 ハジの手を取り、ナギは自分の頬に当てた。
「ギーのこと。わたし、この子がいてくれたから、今生きていられるの」
 ギーの口髭が上を向いている。最近気づいたが、口髭は猫の髭と同じように、気持ちによって動き方が変わるらしい。今は、おそらく喜んでいるのだと思う。
「でも、本当ならここにいるべき子じゃないから、龍の群れに返してあげた方がいいんじゃないかと思ってる」
 いなぁん、いなぁん
 ひげが下がり、まるでいやだと言っているようだ。
「ギー、あなたの気持ちは分かったよ。でも、ハジが起きたら、一度相談させて? ギーはわたしの大切な家族だから、わたしたちがいなくなって一人になったらかわいそう。わたしは、それが心配なの」
 うるる……
 ハジにぴったり寄り添っていた体をナギに添わせ、ギーは小さく呻いた。
「ギーに相談なく話し始めてびっくりしたよね。ごめんね。この話は、これでおしまい。ここからは、ハジのこと。だから、もう少しだけ聞いてね」
 ハジの手に唇を寄せ、頬を摺り寄せた。
「ハジ、わたしはあなたが好き。あなたは覚えてないみたいだけど、わたしたち、小さい頃に出会ってるんだよ。そのとき、わたしにこう言ったの。『元気でいいね』って。わたしのおてんばぶりを、里では誰も褒めてくれなかった性格を、あなただけがありのままのわたしを褒めてくれたの」
 ギーを撫でつつ、ナギは微笑んだ。
「わたし、里では疎ましがられてた。いいねって言われたのは、木登りができたことくらい。それだって、木の実を取る以外でやったら、はしたないって言われたの。わたしは、おてんばであることのなにがいけないのか分からなかった。誰に聞いても、納得がいく答えを教えてくれなかった。お父さまなんて、すっごい顔で怒るのよ。だから、あそこでの生活はずっと息苦しかった。そんなわたしの心を、ハジの言葉が救ってくれたんだよ」
 だから、ナギは自分の心のままに生きることが怖くなくなったのだと告げた。
「その時から、ハジはずっとわたしの救い人で、好きな人。でも、初恋の人だから好きになったんじゃないよ。今のあなたが素敵だから、好きになったの」
 照れくさくて、肩を縮こませる。ギーがにゅっ、にゅっと鼻息荒く鳴いて、まるで応援してくれているようだ。
「ハジは、わたしのことどう思ってる? ただの共闘相手と思ってることは知ってる。今はまだそれでもいいの。ただ、ひとつだけ叶えて欲しいことがあるの。どうか、わたしの名前を呼んで? ナギって教えたのに、お前としか呼んでくれないのは、さすがにつらいわ」
 唇を尖らせ、恨めし気に想い人を見つめた。
「ハジ、もっと色々話したいよ。名前を呼んで、たくさんおしゃべりしたいよ。だから、ハジに、もっと生きて欲しいっ……!」
 最後の言葉は、嗚咽でうまく紡げなかった。
 胸に鋭い痛みが走り、また体の内側が硬くなっていく。体温もまた下がったのか、熱いはずのハジの手が次第に冷たく感じていく。頭もぼんやりして働かず、眠くて瞼を開けていられなかった。
「ハジ、ずっと、一緒に……、いたい……。お、願い……、一緒に……、生きて……。わたしと、生きて……」
 薄れゆく意識に体を保てず、またハジの上に倒れ込み瞳を閉じた。目の裏に訪れる暗闇に引きずり込まれ、意識が急激に暗闇に落ちていくのが分かる。このまま意識を失えば、待っているのは死だ。直感でそう感じた。
(それもいいかもしれない……)
 ハジを置いて逝くのはいやだが、今、ナギは確かに幸せだ。好きな人に想いを伝え、その人に触れている。最高の満足いく死の瞬間ではないが、悪くないと思う。
 肌の感覚がなくなってきた。体温が下がり過ぎて、ハジの熱も感じない。いよいよかと、死を覚悟したその時だった。
「ナ、ギ……」
 意識を引き戻してくれる声が聞こえた。
(ハ、ジ……?)
 瞼を無理やりこじ開ける。「ナギ……」と、とても優しい声色がまた名を呼んでくれた。
(良かった……、ハジ、生きてる……!)
 気づいたんだねと続けたいのに、口が固まって動かない。
「面倒、かけた……」
 ハジの手が背中に回る。熱くて、細いけれどたくましいそれが、冷え切ったナギの心と体に熱と生きる希望を与えてくれた。
「また……、お前の声が、聞こえたよ……。生きろ、って……」
 だから戻ってきたのだと呟く。
「口、開けられるか……」
 ハジの言葉が聞き取れない。聞き返したくても口が動かない。今にも意識が飛びそうだ。ハジが覚醒したのだ、自分がここで死ぬわけにいかない。そう思うのに、意識は勝手に薄れていく。
 ついに、目の前の暗闇も見えず、ハジの声も聞こえなくなった。
 ごめんねハジ、先に逝くね、ギーのこと、よろしくね。
 ナギは、意識を手放した。
 その意識が、急激に呼び覚まされる感覚が胸の奥で湧いた。その感覚は、炎となってナギの内側に灯り、凍え切った体に熱を与えてくれた。
 体に熱が戻ってくると、色んなところの感覚もよみがえってきた。背中に添う腕のたくましさや、ハジの息遣い、ギーの鳴き声、色んなものが感じられた。
 ハジ、と名を呼ぼうとして、唇に何かが触れていることに気がついた。何かで塞がれていて、開くことも閉じることもできない。
 突如、ぬるりと生暖かいものが口の中に流れ込むのを感じた。この感覚には覚えがあった。
 血だ。ハジが、血を流し込んでいるのだ。唇が動かないのは、腕か何かを押し付けられているせいなのか。意識とともに視界がはっきりしていく中で、ナギは信じられない光景を目の当たりにした。
 目の前に、ハジの顔があった。それも、鼻が直接触れ合う距離だ。もご、と口を動かすと、後頭部に手が添えられ、さらに顔が近づいた。
(……もしかして、くちづけ、してる……!?)
 どろりと流れる血は、確かにハジの口を通して流し込まれていて、正確にはくちづけではなく口移しされているのだが、今のナギにとってはどちらも同じ意味だった。
(……なんで、なんでこんな形でハジと口づけしてるの? 初めてなのに! こんな形でしたくなかった……!)
 悔しいやら悲しいやら嬉しいやら、色んな感情が心の中で一気に噴出し、涙が勝手にあふれた。
「泣くなよ」
 ハジの少しがさついた指が、頬を流れる涙をぬぐう。がしがしと乱暴な手つきに「痛い」と文句を言えば、「我慢しろ」と怒られた。
(あたたかい……)
 ハジの手も、頬を伝う涙も、ハジとの口移しも、どれもがあたたかい。木々の合間から差し込む太陽の光も、優しくナギをあたため、照らしてくれる。
「……ハジ、ありがとう。わたし、ハジのことが好きだよ」
 なめらかに動くようになった唇で、今一番伝えたい言葉を口にした。
「……でも、今のはさすがに……」
「いや、その、お前が血を飲まないから、どうしたらって思って、気づいたらっ……」
 口移しをしていたのだと、もごもご口ごもった。
「そうだよね。……うん、分かってる。ありがとう、助けてくれて。ごめんね、口移しなんかさせて。……わたし、まだ本調子じゃないから、このままここで寝るね」
 そう言って、ハジの腕の中を抜けようとした。
「ッ、ナギ!」
 その腕を、熱い手が掴んだ。
「な、なに……?」
「好きなんだ」
「……え?」
「好きなんだ、お前が」
 ナギは、耳を疑った。
「うそ……。だって、そんなそぶり、全然見たことない……」
「恥ずかしいからだ」
「口移しだって、わたしを助けるためで……」
「お前を助けなきゃって思ったのももちろんだけどよ、……絶好の機会だと思ったんだよ。口移しを口実に、お前に口づけできんじゃねえかって。言わせんなよ」
 照れながらも、熱を帯びた黒い瞳がナギをとらえて離さない。
「本当に……?」
「ああ」
「嘘じゃない……?」
「いつまで疑ってんだよ」
 ハジは苦笑してナギの頬をつまんだ。
「病気、うつっちゃうよ」
「それこそ、今さらだろ。それに、お前の言葉を借りりゃ、今さら病気のひとつやふたつ増えたところでどうってことねえよ」
「じゃなくて。……本当は、こんな汚い顔、ハジに見られたくなかった」
「別に、お前であることには変わりねえだろ」
「きれいなわたしを見て欲しかった……」
「お前はきれいだよ」
 苦笑して頭を撫でたのち、ハジはそっとナギを抱き寄せた。
「いつでもまっすぐで、諦めが悪くて、火打石をなかなか使いこなせねえ不器用で」
「も、もう使えるもん!」
「まだまだ。練習しろ」
 喉の奥でくつくつ笑う振動と温もり、そして心の臓の鼓動が、密着した体から伝わって来る。
 ハジが生きている。その喜びと安堵に、涙が頬を伝った。
「もう、泣くなよ。お前の涙は心臓に悪い」
 手でぬぐったのち、頬に唇を寄せてくれた。
 もう一度頬に、続いて額に、そして最後に唇に口づけを落としてくれた。
 嬉しくて、せつなくて、また涙がこぼれる。
「なんで、また泣いてんだよ」
 また荒々しく涙をぬぐわれる。誰のせいだと言いたかったが、出てくるのは嗚咽だけだった。
「……ハジ、わたしたち、実は小さい頃に出会ってるの。虎石族の人たちが、うちの里に来たことがあったんだけど、その時に会ってるんだよ」
「そうなのか? どっかの里に行ったような記憶はあるんだが……。悪い、昔のこと、あんまよく覚えてねえんだ」
「そっか。あ、別にいいの。ハジは、わたしの初恋の人だって言いたかっただけだから」
「そうなのか?」
「そう。そして、救い人でもあるの」
「救い人?」
 ナギは顔を上げ、ハジの漆黒の瞳を見つめた。
「わたし、男の子みたいにおてんばだったから、はしたないっていつも言われてたの。でも、ハジはわたしに『元気でいいね』って言ってくれたの。その言葉は、わたしの心を救ってくれた、ハジは、あのときからわたしの救い人なの」
「そうか」
 頬をなでる手に、自分のそれを押し当てた。ぼこぼこして、見るのもいやだった顔を、ハジはきれいだと言ってくれた。ハジの言葉が、またナギの心を救ってくれた。
「……また、眠くなってきた」
「寝ろ」
 ここで再会したときと同じ言葉だったが、とても優しくて安心できるものだった。ナギは、ハジの腕の中で意識を飛ばした。