桂花の香りは千里先まで

「赤と白…、あとのりとペンとー…。」
「買ったよ、全部。」
ホームセンターでの買い物を済ませ、また2人で学校へ帰っている。
隣に日比谷先輩がいる、というのはなんとも変な感じだ。
すると、また風に煽られ、甘い香りがふわっと2人を包んだ。
学校の中庭から香るあの小柄な木とおなじ匂いだ。
「わあ、いい香り!」
思わずそう言うと、「なんだろ、金木犀?」とくんくんと彼は鼻を動かしていた。
「はい!多分金木犀ですね。」
意気揚々と答えると、彼は少し俯きがちに笑った。
彼の癖だ。
少し俯いて、くしゃりと笑う。
ずっと見てきたからわかる。
私はその時の横顔が大好きなんだから。
「…三島さんの下の名前って、桂花、だろ?」
彼は唐突に私に尋ねた。
「そうですよ。」
彼はふっと笑って、「これと一緒だ。」と言った。
これ、が何を指すのか分からなくて、彼の顔を見あげていた。
顔に、どういうことだ、と書いてあったのか、彼は私を見て少し微笑んだ。
「桂花って、金木犀の別名なんだよ。」
漢字も一緒だし多分合ってる、と口の端を上げた。
「初めて、知りました。」
そう言って、大きく息を吸った。
肺を金木犀の甘く濃厚な香りで満たした。
濃厚なのにしつこくない。
甘いのに重たくない。
なのに、知らない間に酔ってしまう。
金木犀の香りはなんだか不思議だ。
「綺麗な名前だね。」
彼は立ち止まり、その綺麗な顔を少し傾けて、私の目を見た。
彼の瞳に私が映っているのが見えた。
どくん、と心臓がはねた。
いまだけは、彼の中に私しかいないんだ。
彼の瞳が少し潤み、その中にいた小さな私も揺れていた。
「三し、……いや、桂花ちゃん。うん、桂花ちゃん。これから、そう呼ぶ。」
彼はそう言って、そのまま目を逸らし歩き出した。
「…は、はい。」
心臓が、うるさい。
声がのどをつっかえて、上手く出ない。
苦しい。なのに、嫌な感じじゃない。
顔が熱い。
今は夕日に感謝したい。顔が赤らんでいることを、彼に隠してくれたから。
「だから、桂花ちゃんも。日比谷じゃなくて、千里でいい。」
「え、…えと千里先輩?」
先輩は私を見てまた少し俯きがちな笑顔を見せて、「うん、よし。早く帰るぞ。日、沈むわ。」と手招きした。
そして、また彼の隣に並んで歩いた。
心臓がばくばくと大きく音を立てていた。
先輩に聞こえてしまいそうなくらいに。
「桂花ちゃん、知ってる?金木犀の花言葉。」
「知らないです。何ですか?」
少し首を傾げて、そう聞くと、彼は私の事を見下ろした。
「『初恋』。」
彼の口は弧を描いた。
その笑い方が優しくて大人っぽくて、どきりとした。
「1度嗅いだら、忘れられないからなんだって。」
まるで、千里先輩だ。
彼の笑顔は、1度見たら、忘れられるはずがないくらい、魅力的だ。
学年の違う、知り合ってもない、私の元まで届くくらい、素敵な笑顔。
それは、まさに、金木犀の強く濃い香りのよう。
「薬にもなるんだってさ。あと、香りには、リラックス効果とかもあるんだって。」
「詳しいですね。」
先輩の話に、うんうん、と頷いて聞いていたけれど、気になって口を開いた。
彼は「あー、。」と少し言葉に詰まって、照れたように後頭部に手を当てた。
「調べた。」
「へ?」
「『桂花』って、金木犀だなって委員会の時に思って。金木犀ってどんな花なんだろうって。」
そう言って、「俺、気持ち悪いな。」と恥ずかしそうに笑った。
「い、いやいや。そんな事ないです。」
むしろ、嬉しい。
私の名前を覚えて、それで、花に対してでも、興味を持ってくれたのが。
「金木犀、私、大好きなんです。知れてよかったな。」
すっかり沈みかけている太陽が、2人を、茜色に照らした。
でも、他所の家の庭に咲いてあった金木犀は、夕日に負けないくらい、小さく輝いていた。
「俺も金木犀が花の中で1番好きだな。」
先輩はそう言って、そっぽ向いた。
驚いて彼を見上げると、彼の耳は夕日に照らされてか、赤くなっていた。
『花の中で1番好き』。
その言葉を脳で反芻させた。
金木犀と同じ名前の私に向けて言っているのか、ただ、金木犀に言っているのか。
千里先輩。それは、勘違いするよ。
これ以上、好きになったら、いつか決壊して零れてしまいそうだ。
紅潮した頬に、ほんのちょっとでも彼自身が含まれていて欲しい。
彼とふたりで並んで歩けているという事でも嬉しいのに、その先を求めたくなる。
欲張りになってしまう。
本当にずるい。
先輩は、私を私じゃなくする。
先輩はちらりと私の方をみて、私の真っ赤な頬に気づいて、後頭部をぽりぽりとかいた。
「……あー。」
いつもは、明るく笑っているのに。
調子が狂ったのか、普通の男の子みたいに百面相していた。
なんだか、その様子が可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
くすくすと笑っている私を横目に、彼は少し拗ねたような顔をした。
その表情が、いつもの千里先輩らしくなくて、さらに笑った。
「…あー、桂花ちゃんのクラスは、アメリカンカフェやるんだっけ?」
首に手を置き、すこし気まずそうに言った。
「…はい。カフェっぽい物をアメリカンサイズで提供するような感じで」
「へえ、おもしろそう」
少し気まずそうにする会話も何だかくすぐったかった。
文化祭実行委員の仕事が増えれば増えるほど、千里先輩と過ごす時間が増えていった。
大会議室に行けば彼がいて、いつもの1時間がその半分くらいに感じられた。
もう、ずっと文化祭がおわらなければいいのに。
「千里先輩のクラスは何やるんですか?」
「俺らは、ステージの演目で舞台やるよ。戦隊ヒーローみたいなやつ。」
そう言って、まだ仮の台本をスマートフォンで見せてくれた。
そこには、戦隊ヒーローがよく言う規模の大きいセリフや、派手なアクションシーンが細かく書かれていた。
「先輩も出演するんですか?」
「いや俺は運営側に逃げたよ。やらされかけたけどな。」
千里先輩は苦笑しながら、「やだやだ。」と首を振った。
「こいつらって恥ずかしいセリフめっちゃ言うだろ?耐えられないわ、俺。」
心底嫌そうな顔をするから、思わず笑ってしまった。
「似合いそう、ヒーロー。」
「ちょっと馬鹿にしてるだろ、それ。」
千里先輩は眉間にしわを寄せ、少し不満気な顔をした。
その姿があまりにも子供らしく見えて、思わず吹き出す。
彼もつられたように吹き出し、2人でしばらく笑っていた。
「……あー、桂花ちゃんと話すの、やっぱたのしい。」
彼は、歯を出して笑った。
かあっと顔が熱くなる。
友達といる時とは違う、ずいぶん幼い笑顔だ。
私の大好きな笑顔だ。
「……わたしも、です。」
そう言うと彼は、少し驚いて、優しく甘い笑顔を見せた。
ああ、この笑顔が大好きだ。
この人が大好きだ。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
そう、心の中で願った。