10月が始まり、まだたまに夏の暑さがぶり返す日もあるが、秋らしいのどかな暖かさに移り変わっていた。
頬を撫でる風が前より冷たくなっている。
今日は、ここ数日間で一気に秋になったようだった。
最近は、中庭に咲く金木犀が、散る前にもがくようにして、濃厚な香りを校舎に香らせるようになっていた。
その頃、文化祭の準備が本格的になった。
クラスでも出し物を何にするかでわいわいと盛り上がっている。
実行委員はクラスを先導しなきゃいけないから、もう既に大忙しだ。
大会議室を拠点に、集まりは週に2、3度、放課後だけじゃなくお昼休みなども使うようになってきていた。
私も教室と大会議室を行き来することが増え、どっと疲れが溜まっていた。
教室の中は、「ここの壁はどうする?ダンボールで補強した方いいんじゃない?」とか「衣装はやっぱりさ…。」「費用がかさむなあ。」とか、真面目な会話の間にもお祭りのようなうきうきがあった。
そんな中でも千穂と楓は人一倍に張り切っていて、ああでもないこうでもないと色んなグループで話し合いを仕切っていた。
そんな2人の様子に、クラスの子はすごく助かっている様子でその2人が要となって働いてくれていた。
本当は実行委員の私がやらなければならないのだが、文化祭そのものの運営での雑務が多すぎてクラスの方のことは、もう1人の男の子の実行委員に頼んでいる。
日比谷先輩もクラスの仕事より、文化祭の運営の仕事の方に力を入れてるみたいで、私はこっちの方がありがたい。
「あの、三島さん。赤と白のペンキがたりなくなっちゃったんだけど、どこに行けば受け取れる?」
楓や千穂と提供するメニューの考案をしていたところ、クラスの子に声をかけられた。
補充のペンキは大会議室に常備されているが、どのクラスも赤色は沢山使うみたいで、昨日確認した時は残り数個になっていた。
もう無くなっているかもしれない。
「大会議室だけど、たしか、赤は切らしてるかも。…私、買い出し行ってくるね」
「ほんとに?明日から本格的に色塗りを始めるから、ゆっくりでいいからね。」
その子は自分の持ち場へ戻って行き、また作業を始めた。
私は一言声をかけて、財布とスマホを持って教室を出た。
他に足りない備品もついでに補充しておこう。
各クラスが本格始動してから、大会議室にある予備のペンキやらテープやらがどんどん消えていく。
いいタイミングだったな、と少し気分がよくなった。
軽い足取りで、下駄箱からローファーを取り出した。靴を履いて、つま先を地面にとんとんと打ち付けた。
昇降口から出ると、毛先をふんわりとウェーブに巻いた髪の毛が見えた。
途端、胸が高鳴った。
あれ、絶対、日比谷先輩だ。
わかる、後ろ姿でも。どこにいても、分かってしまう。
頭では「溢れては行けない。」って訴えているのに、目は言うことをきかない。
彼から目が離せない。離したくない。
それ程までに、彼に心も視線も奪われているんだ。
「あ、三島さん!」
彼は不意に振り向いた。
私を見つけると、小走りでこちらに向かってきた。
慌てて胸ポケットから鏡を取りだして、前髪やメイクを確認した。
「三島さんも買い出し?」
「あ、えと、日比谷先輩もですか?」
先輩はにこやかに、「そうそう。」と頷いた。
「どこ行くの?」
そう言って、手に持っていた私のメモ用紙を取り上げて、「あー…、じゃあ近くのホームセンターだな!」とこちらを見た。
日比谷先輩は、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。
先輩は男の子にしては小柄だけれど、私よりも背が高いから、身長差が出来る。
その約20cmがなんだかくすぐったい距離に感じられた。
緊張しすぎて、頭がぼーっとする。
心臓がうるさい。
まるで、中庭から香る甘い風に酔わされているようだった。
「暖かいね。」とか「いい匂いだね。」とか言って微笑んでいたのに、彼は急に、
「…三島さんってさ。」
と私の顔を覗き込んだ。
至近距離で彼のアーモンド型の茶色い目と視線がぶつかり、慌てて目を逸らす。
私は前髪を指先で撫で、彼がいる方とは真逆に視線を泳がせた。
「な、んでしょうか。」
「…前髪触るの、癖?」
「え?」
「ていうか、鏡見るのが癖?」
急に何を言い出すのかと驚いて、彼の方に目を向けた。
すると、少しつり上がっているあの目でじっと見つめられた。
魔法がかけられたみたいに、身体が硬直して、目を逸らせなかった。
「……なん、となく、ですかね。どうしてですか?」
「この前会った時もだし、今も触ってたから。」
「あ、あー。そうです、ね。」
しどろもどろでも答えるわたしに、さらに彼はじぃっと見つめた。
彼の瞳は私の心の内を全部見透かされているような、強い眼差しだった。
彼には嘘が通用しないな、と感覚的に思った。
「…自信が、ないんです。」
先輩は先を促すように、「どして?」と言った。
先程までの強さとは変わって、なんでも包み込んで受け止めてくれるような暖かい瞳だった。
この人になら、話してもいいと思った。
中学3年の頃のことだ。
私は1年生の頃からずっと片思いしていた男の子に告白されて、付き合う事になった。
その日は、夢なのかな、と勘違いするくらい嬉しかったことを今も覚えている。
これから、私はこの人とたくさんの思い出を作って、たくさん笑って、もしかしたらたくさん泣くのかな、そういう夢をもった。
あの甘さはこれからの人生超えることはない、そう感じていた。
そう、信じていた。
その夢が呆気なく散っていったのは、それから1ヶ月もしないころ。
彼の友達から、「気になる人が出来たから、別れようか迷ってるらしい」と、言われた。
絶望という言葉を思い切りに叩きつけられた気がした。
絶望、情けない、嫌気、屈辱、軽蔑、嫌悪、様々などす黒い気持ちが胸の奥で渦巻いていた。
もしかしたら嘘かもしれない。
そう思いたかった。
その友達から、彼が気になっている子の名前を聞いて唯一の希望も崩れ落ちた。
彼の気になっている女の子は、クラスで一番可愛い女の子だった。
というか、学年で。というか、学校で。
その子を言葉で表すなら『可憐』だろうか。
目がくりっと丸く大きくて、色白で、色素の薄い髪をふわりと内巻きにしていた。
誰にでもまるで花が咲くように、優しく、それでいて儚く笑いかける子だった。
優しくて、成績も優秀で。
運動が少し苦手だけど、頑張っているところとか。
彼女のことを嫌いになるような人なんていなかった。いるはずがなかった。
そんな子が好きなら、勝てるわけがなかった。
勝っているところなんてひとつもない。
振られるんだ。
振られたくない。
振られたら、彼の中で私たちは終わってしまう。
終わらせたくない。
彼の中でも私の中でも、まだ、終わらせたくない。
でも、初めて大好きになったあの人には幸せになって欲しいって思った。
ふたつの気持ちを天秤にかけ、結局、私は、彼から逃げた。
振られるのが怖くて、振ろうと思った。
私はその日のうちに、別れを告げた。
彼はやはり止めずに、「ありがとう。ごめん。」と言って、離れていった。
彼にとっての私の存在を思い知らされた気がした。
大好きで、大好きで、大好きで。
自分なりに愛情表現だって頑張った。
なのに裏切られた、と相手を攻める気持ちばかりが溢れた。
勝手に逃げたのは、私なのに。
やはり、可愛くない私には戦う道具がなかった。
というか、戦うのを諦めた。
もし、もっと目が大きくて、鼻が小さくて、頬の肉も少なくて、痩せていて、足も細くて、髪もさらさらだったら。
彼は私の事を引き止めてくれたのかもしれない。
もっと自信があって、胸を張って堂々と居れたのかもしれない。
そう思ってから、人一倍に頑張った。
彼はあの後、その女の子と付き合ったらしい。
もう、悔しかった。
ダイエット、メイク、たくさんの動画や雑誌をみて研究した。
一日中鏡の前に座った。
アイラインはガタガタになるし、ビューラーで何度も瞼を挟んだ。
コテなんて使ったこと無かったから、髪もまだ上手く巻けなくて、グルグルのアフロみたいになったりした。
高校入学までの1年、ひたすら自分磨きに時間を費やした。
たしかにあの頃よりはマシになったとは思う。
でも、楓や千穂のように、美人じゃない。
風に煽られても、水に濡れても、汗をかいても、動いていても、可愛い2人とは違う。
朝、家を出た時のままの私じゃないと。
鏡の中にいる、完璧に作った私じゃないと。
少しでもメイクや髪が崩れると気になってしまう。
だから鏡とくしが手放せない。
少しでも崩れると、自分の嫌なところが露呈してしまうようで怖いから。
そうしたら、みんなみんな離れて行ってしまいそうに思えたから。
「だから、癖と言うより……執着?に近いのかな」
彼は私の話を黙って聞いていた。
たまに、「うん」とか「そんなことないよ」とか、優しい言葉が零れていた。
千穂にも楓にも行ったことないことを言ってしまった。
ていうか、今まで、誰にも言ったことがない内側の黒い部分を初めてさらけ出した。
重いとか、妄想癖だな、とか思われていそうで、言ったことを後悔した。
「……うーん、わかった!」
その不安をかき消すように、彼は明るく口を開いた。
「三島さんの元彼が、見る目ねーな!」
「え?」と気が抜けた声が漏れた。
なんて言葉をかけられるかなんて分からなかったけど、間違いなくこれは予想外の言葉だ。
「…あ、別にその元彼のこと否定してるとかじゃなくて!…三島さんは、好きになった人のためにこんなに努力できるのに、そんなことも分かんないとか、見る目ねーよ。」
彼はそう言って私の前に立ち、私を見つめた。
視線が交差し、ぶつかった。
「それに、人はそんなに冷たくねーよ。三島さんが寝起きのボサボサ髪でも、すっぴんでも、きみの友だちやこれから好きになってくれる子は離れてかないよ。だって、」
そして、彼はにかっと笑って、
「三島さんは努力家の可愛い女の子だから。」
と言った。
どくん、と心臓がはねた。
かっと全身が熱くなった。
かわいい?
いま、かわいいって、言われた?
びっくりして、口を半開きのまま彼を見ていた。
「ははっ、なんだよ、その顔。」
驚いて言葉も出ない私に彼は吹き出して、盛大に笑った。
「、いや、いやいやいや!先輩こそ、なんなんですか!」
「俺はホントの事言っただけだし。はは、顔赤。」
彼は私の真っ赤な顔を見てさらに笑いころげた。
だって、今まで可愛いなんて言われて来なかったし、私には「もっと頑張りなよ。」とかの少し馬鹿にされた言葉の方があっている。
恥ずかしさとちょっとの怒りでさらに身体が熱くなった。
ふと、笑い疲れたのか、彼は全身の力を抜くようにふっと息を吐いた。
「もしかしたら、三島さんの元彼は三島さんのことが大好きだったのかもな。」
「え?いやいや、」
「三島さんが元彼に思ったように、元彼も三島さんに幸せになって欲しかったんじゃないかな。」
「……そんなことは、」
「俺だったら、そう思うよ。」
今まで考えたこともなかった。
元彼は私が嫌いで、可愛いあの子が好きで。
だから離れていったのかと思っていた。
たとえ"もしも"の話が"もしも"のままでも、先輩の励ましでもなんでもないただ自分の考えを言っただけのその言葉が、心をふっと軽くさせた。
正直、怖かった。鏡とくしが手放せないことを見破られて。
あの時のことは思ったよりも自分の中で大きいもので、ずっと引っかかっていた。
どうやったって取れない"しこり"のようなものを、彼は意図も簡単に私から消してくれた。
彼は私をにふわりとした柔らかな笑顔を向けて、そして、ぽんっと頭に手を置いた。
その手からじんわりと優しい温かさが伝わった。
ほんと、どうしてくれるんだ。
この人はどれだけ私のことを好きにさせたら気が済むんだろう。
「…ばか。」
ホームセンターに着くまで彼は真っ赤な顔の私を馬鹿にして笑っていた。
でも、ずっとかっこいいなって憧れていた人から「かわいい。」って言われて、嫌だったことに上書きさせられて、わたしは今にも空を飛べそうなくらい浮かれていた。
本当に先輩は、ずるい。
ずるくて、ずるくて、ずるすぎて。
それで、大好きだ。
強い風が吹いた。
髪が無造作に空に舞った。
セットした髪の毛も前髪も、ぐちゃぐちゃになった。
2人でお互いを見合わせて、吹き出した。
髪は、風に煽られるまま自由に動いた。
私は、鏡を開かなかった。
頬を撫でる風が前より冷たくなっている。
今日は、ここ数日間で一気に秋になったようだった。
最近は、中庭に咲く金木犀が、散る前にもがくようにして、濃厚な香りを校舎に香らせるようになっていた。
その頃、文化祭の準備が本格的になった。
クラスでも出し物を何にするかでわいわいと盛り上がっている。
実行委員はクラスを先導しなきゃいけないから、もう既に大忙しだ。
大会議室を拠点に、集まりは週に2、3度、放課後だけじゃなくお昼休みなども使うようになってきていた。
私も教室と大会議室を行き来することが増え、どっと疲れが溜まっていた。
教室の中は、「ここの壁はどうする?ダンボールで補強した方いいんじゃない?」とか「衣装はやっぱりさ…。」「費用がかさむなあ。」とか、真面目な会話の間にもお祭りのようなうきうきがあった。
そんな中でも千穂と楓は人一倍に張り切っていて、ああでもないこうでもないと色んなグループで話し合いを仕切っていた。
そんな2人の様子に、クラスの子はすごく助かっている様子でその2人が要となって働いてくれていた。
本当は実行委員の私がやらなければならないのだが、文化祭そのものの運営での雑務が多すぎてクラスの方のことは、もう1人の男の子の実行委員に頼んでいる。
日比谷先輩もクラスの仕事より、文化祭の運営の仕事の方に力を入れてるみたいで、私はこっちの方がありがたい。
「あの、三島さん。赤と白のペンキがたりなくなっちゃったんだけど、どこに行けば受け取れる?」
楓や千穂と提供するメニューの考案をしていたところ、クラスの子に声をかけられた。
補充のペンキは大会議室に常備されているが、どのクラスも赤色は沢山使うみたいで、昨日確認した時は残り数個になっていた。
もう無くなっているかもしれない。
「大会議室だけど、たしか、赤は切らしてるかも。…私、買い出し行ってくるね」
「ほんとに?明日から本格的に色塗りを始めるから、ゆっくりでいいからね。」
その子は自分の持ち場へ戻って行き、また作業を始めた。
私は一言声をかけて、財布とスマホを持って教室を出た。
他に足りない備品もついでに補充しておこう。
各クラスが本格始動してから、大会議室にある予備のペンキやらテープやらがどんどん消えていく。
いいタイミングだったな、と少し気分がよくなった。
軽い足取りで、下駄箱からローファーを取り出した。靴を履いて、つま先を地面にとんとんと打ち付けた。
昇降口から出ると、毛先をふんわりとウェーブに巻いた髪の毛が見えた。
途端、胸が高鳴った。
あれ、絶対、日比谷先輩だ。
わかる、後ろ姿でも。どこにいても、分かってしまう。
頭では「溢れては行けない。」って訴えているのに、目は言うことをきかない。
彼から目が離せない。離したくない。
それ程までに、彼に心も視線も奪われているんだ。
「あ、三島さん!」
彼は不意に振り向いた。
私を見つけると、小走りでこちらに向かってきた。
慌てて胸ポケットから鏡を取りだして、前髪やメイクを確認した。
「三島さんも買い出し?」
「あ、えと、日比谷先輩もですか?」
先輩はにこやかに、「そうそう。」と頷いた。
「どこ行くの?」
そう言って、手に持っていた私のメモ用紙を取り上げて、「あー…、じゃあ近くのホームセンターだな!」とこちらを見た。
日比谷先輩は、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。
先輩は男の子にしては小柄だけれど、私よりも背が高いから、身長差が出来る。
その約20cmがなんだかくすぐったい距離に感じられた。
緊張しすぎて、頭がぼーっとする。
心臓がうるさい。
まるで、中庭から香る甘い風に酔わされているようだった。
「暖かいね。」とか「いい匂いだね。」とか言って微笑んでいたのに、彼は急に、
「…三島さんってさ。」
と私の顔を覗き込んだ。
至近距離で彼のアーモンド型の茶色い目と視線がぶつかり、慌てて目を逸らす。
私は前髪を指先で撫で、彼がいる方とは真逆に視線を泳がせた。
「な、んでしょうか。」
「…前髪触るの、癖?」
「え?」
「ていうか、鏡見るのが癖?」
急に何を言い出すのかと驚いて、彼の方に目を向けた。
すると、少しつり上がっているあの目でじっと見つめられた。
魔法がかけられたみたいに、身体が硬直して、目を逸らせなかった。
「……なん、となく、ですかね。どうしてですか?」
「この前会った時もだし、今も触ってたから。」
「あ、あー。そうです、ね。」
しどろもどろでも答えるわたしに、さらに彼はじぃっと見つめた。
彼の瞳は私の心の内を全部見透かされているような、強い眼差しだった。
彼には嘘が通用しないな、と感覚的に思った。
「…自信が、ないんです。」
先輩は先を促すように、「どして?」と言った。
先程までの強さとは変わって、なんでも包み込んで受け止めてくれるような暖かい瞳だった。
この人になら、話してもいいと思った。
中学3年の頃のことだ。
私は1年生の頃からずっと片思いしていた男の子に告白されて、付き合う事になった。
その日は、夢なのかな、と勘違いするくらい嬉しかったことを今も覚えている。
これから、私はこの人とたくさんの思い出を作って、たくさん笑って、もしかしたらたくさん泣くのかな、そういう夢をもった。
あの甘さはこれからの人生超えることはない、そう感じていた。
そう、信じていた。
その夢が呆気なく散っていったのは、それから1ヶ月もしないころ。
彼の友達から、「気になる人が出来たから、別れようか迷ってるらしい」と、言われた。
絶望という言葉を思い切りに叩きつけられた気がした。
絶望、情けない、嫌気、屈辱、軽蔑、嫌悪、様々などす黒い気持ちが胸の奥で渦巻いていた。
もしかしたら嘘かもしれない。
そう思いたかった。
その友達から、彼が気になっている子の名前を聞いて唯一の希望も崩れ落ちた。
彼の気になっている女の子は、クラスで一番可愛い女の子だった。
というか、学年で。というか、学校で。
その子を言葉で表すなら『可憐』だろうか。
目がくりっと丸く大きくて、色白で、色素の薄い髪をふわりと内巻きにしていた。
誰にでもまるで花が咲くように、優しく、それでいて儚く笑いかける子だった。
優しくて、成績も優秀で。
運動が少し苦手だけど、頑張っているところとか。
彼女のことを嫌いになるような人なんていなかった。いるはずがなかった。
そんな子が好きなら、勝てるわけがなかった。
勝っているところなんてひとつもない。
振られるんだ。
振られたくない。
振られたら、彼の中で私たちは終わってしまう。
終わらせたくない。
彼の中でも私の中でも、まだ、終わらせたくない。
でも、初めて大好きになったあの人には幸せになって欲しいって思った。
ふたつの気持ちを天秤にかけ、結局、私は、彼から逃げた。
振られるのが怖くて、振ろうと思った。
私はその日のうちに、別れを告げた。
彼はやはり止めずに、「ありがとう。ごめん。」と言って、離れていった。
彼にとっての私の存在を思い知らされた気がした。
大好きで、大好きで、大好きで。
自分なりに愛情表現だって頑張った。
なのに裏切られた、と相手を攻める気持ちばかりが溢れた。
勝手に逃げたのは、私なのに。
やはり、可愛くない私には戦う道具がなかった。
というか、戦うのを諦めた。
もし、もっと目が大きくて、鼻が小さくて、頬の肉も少なくて、痩せていて、足も細くて、髪もさらさらだったら。
彼は私の事を引き止めてくれたのかもしれない。
もっと自信があって、胸を張って堂々と居れたのかもしれない。
そう思ってから、人一倍に頑張った。
彼はあの後、その女の子と付き合ったらしい。
もう、悔しかった。
ダイエット、メイク、たくさんの動画や雑誌をみて研究した。
一日中鏡の前に座った。
アイラインはガタガタになるし、ビューラーで何度も瞼を挟んだ。
コテなんて使ったこと無かったから、髪もまだ上手く巻けなくて、グルグルのアフロみたいになったりした。
高校入学までの1年、ひたすら自分磨きに時間を費やした。
たしかにあの頃よりはマシになったとは思う。
でも、楓や千穂のように、美人じゃない。
風に煽られても、水に濡れても、汗をかいても、動いていても、可愛い2人とは違う。
朝、家を出た時のままの私じゃないと。
鏡の中にいる、完璧に作った私じゃないと。
少しでもメイクや髪が崩れると気になってしまう。
だから鏡とくしが手放せない。
少しでも崩れると、自分の嫌なところが露呈してしまうようで怖いから。
そうしたら、みんなみんな離れて行ってしまいそうに思えたから。
「だから、癖と言うより……執着?に近いのかな」
彼は私の話を黙って聞いていた。
たまに、「うん」とか「そんなことないよ」とか、優しい言葉が零れていた。
千穂にも楓にも行ったことないことを言ってしまった。
ていうか、今まで、誰にも言ったことがない内側の黒い部分を初めてさらけ出した。
重いとか、妄想癖だな、とか思われていそうで、言ったことを後悔した。
「……うーん、わかった!」
その不安をかき消すように、彼は明るく口を開いた。
「三島さんの元彼が、見る目ねーな!」
「え?」と気が抜けた声が漏れた。
なんて言葉をかけられるかなんて分からなかったけど、間違いなくこれは予想外の言葉だ。
「…あ、別にその元彼のこと否定してるとかじゃなくて!…三島さんは、好きになった人のためにこんなに努力できるのに、そんなことも分かんないとか、見る目ねーよ。」
彼はそう言って私の前に立ち、私を見つめた。
視線が交差し、ぶつかった。
「それに、人はそんなに冷たくねーよ。三島さんが寝起きのボサボサ髪でも、すっぴんでも、きみの友だちやこれから好きになってくれる子は離れてかないよ。だって、」
そして、彼はにかっと笑って、
「三島さんは努力家の可愛い女の子だから。」
と言った。
どくん、と心臓がはねた。
かっと全身が熱くなった。
かわいい?
いま、かわいいって、言われた?
びっくりして、口を半開きのまま彼を見ていた。
「ははっ、なんだよ、その顔。」
驚いて言葉も出ない私に彼は吹き出して、盛大に笑った。
「、いや、いやいやいや!先輩こそ、なんなんですか!」
「俺はホントの事言っただけだし。はは、顔赤。」
彼は私の真っ赤な顔を見てさらに笑いころげた。
だって、今まで可愛いなんて言われて来なかったし、私には「もっと頑張りなよ。」とかの少し馬鹿にされた言葉の方があっている。
恥ずかしさとちょっとの怒りでさらに身体が熱くなった。
ふと、笑い疲れたのか、彼は全身の力を抜くようにふっと息を吐いた。
「もしかしたら、三島さんの元彼は三島さんのことが大好きだったのかもな。」
「え?いやいや、」
「三島さんが元彼に思ったように、元彼も三島さんに幸せになって欲しかったんじゃないかな。」
「……そんなことは、」
「俺だったら、そう思うよ。」
今まで考えたこともなかった。
元彼は私が嫌いで、可愛いあの子が好きで。
だから離れていったのかと思っていた。
たとえ"もしも"の話が"もしも"のままでも、先輩の励ましでもなんでもないただ自分の考えを言っただけのその言葉が、心をふっと軽くさせた。
正直、怖かった。鏡とくしが手放せないことを見破られて。
あの時のことは思ったよりも自分の中で大きいもので、ずっと引っかかっていた。
どうやったって取れない"しこり"のようなものを、彼は意図も簡単に私から消してくれた。
彼は私をにふわりとした柔らかな笑顔を向けて、そして、ぽんっと頭に手を置いた。
その手からじんわりと優しい温かさが伝わった。
ほんと、どうしてくれるんだ。
この人はどれだけ私のことを好きにさせたら気が済むんだろう。
「…ばか。」
ホームセンターに着くまで彼は真っ赤な顔の私を馬鹿にして笑っていた。
でも、ずっとかっこいいなって憧れていた人から「かわいい。」って言われて、嫌だったことに上書きさせられて、わたしは今にも空を飛べそうなくらい浮かれていた。
本当に先輩は、ずるい。
ずるくて、ずるくて、ずるすぎて。
それで、大好きだ。
強い風が吹いた。
髪が無造作に空に舞った。
セットした髪の毛も前髪も、ぐちゃぐちゃになった。
2人でお互いを見合わせて、吹き出した。
髪は、風に煽られるまま自由に動いた。
私は、鏡を開かなかった。
