桂花の香りは千里先まで



桂花(けいか)ー!次、移動教室だよ。美術室!早くしないと遅れちゃうよ。」
教室の入口から千穂(ちほ)がこちらに大きく手を振る。
「ちょっと待って」と言いながら、机の上の散らかった教材類をまとめた。
そこから授業で使う教科書を引っ張り出して胸に抱え、千穂の方へ小走りで向かう。
「ごめんごめん、待たせちゃって。行こっか。」
「全然大丈夫だよ。始業まであと5分もあるしね。千穂はせっかちだなあ。」
千穂の隣に立っていた(かえで)が艶のある黒髪を揺らしながら笑う。
そんな楓の言葉に千穂は「せっかちじゃないし」とぷくっと頬を膨らましながら拗ねたような顔をする。
千穂は高めのポニーテールを揺らして楓に軽く体当たりした。
「ちょ、千穂!ちっさいくせに力強いわ!」
そう言いながらも、楓の淡いピンクのアイシャドウをつけた目と同じ色のリップを付けた唇が綺麗な弧を描いていた。
そんな姿につられて、思わず笑みがこぼれた。
「ちょっと桂花!笑ってないで楓のこと怒ってよ!」
少し考えて、千穂の頭くしゃくしゃと撫でながら笑った。
「千穂ちっちゃくてかわいい!」
ちょっと、怒ってよ!と、千穂がむすっとすると、私と楓はまたさらに声を上げて笑った。
子供みたいに無邪気な千穂を楓とわたしでからかったり、みんなでふざけたりするのは、高校へ入学して半年たった今でも変わっていない。
入学当初の座席が、隣の席同士とその後ろの席だったということもあって、よく声をかけるようになった。
そして、中学の時に応募していた絵画コンクールが同じだったり、まだ世に名も知られていないバンドをプレイリストに保存していたり。
他にも色々な偶然が重なって、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
それから、半年がたった今でも3人でいつもふざけて、笑っている。
そんな時間が私にとって、大好きで大切なんだ。

「……あの、千穂、ちゃん!」
階段を数段のぼり始めた時、突然後ろから声かけられた。
まず千穂が振り向き、わたしと楓がつられて後ろをむくと、短髪で背の高い男の子が立っていた。
たしか、2組の高橋くんという人だった気がする。
入学して間もなくの頃、クラスの女の子たちが、かっこいい子がいる!と噂していた。
たしかサッカー部で、下校時間ぎりぎりまで練習しているのをたまに見かける。
高橋くんは、まくった袖をなにやら忙しなくいじりながら口ごもっていた。
ふと、彼の後ろの方を見ると、男の子数人が廊下の影からこちらを伺っていた。
「えっと、高橋くん…だよね?どうしたの?」
千穂のその気まずそうな他人行儀から、顔は知っているけどそこまで仲良くない、ことが察せた。
彼はさらにおどおどとばつが悪そうな顔をしながら手をポケットに入れたり出したりしていた。
あ、これ告白だ。
なんとなく察しがついた。
高橋くんは、無邪気で明るい子、と2組の友達が言っていたけれど、今の彼は緊張で顔がひきつっていてとてもそんな風には見えなかった。
でも、顔はすごく整っていて、クラスの女の子達がはしゃぐのも頷ける。
「あー、うちら先行ってるわ。まだ時間あるしゆっくり話してきな。」
気まずい空気の中、最初に口を開いたのは楓で、私の腕を引っ張って階段をかけのぼった。
「あれは告白だね。」
美術室に着いてすぐ、楓がにやにやとしながらわたしに言った。わたしも「そうだね。」と笑いながら言った。
「千穂の可愛さがバレちゃったか!」
楓が腕と足を組んで、眉間に指を当て、悔しそうな顔をした。その姿があまりにも様になっていて思わず吹き出す。
「カップルになって戻ってくるかもねー。」
2人で勝手に盛りあがっていると、ガラガラと美術室の古い引き戸を開けて千穂が教室に入ってきた。
「おー?千穂選手、結果はいかに!」
楓がマイクを持つようなふりをして、手を千穂に向けた。
「ええ、なんのこと。」
「隠してもむーだ。告白されたんでしょ?高橋に!」
「返事は返事は!」
顔が紅潮している千穂がとぼけてみせたが、私と楓には嘘がお見通しだ。
千穂は、んー、と小さく唸ってからへらっと笑った。
「…お断りしちゃった。」
「あららー、高橋、玉砕かー。」
「だって、委員会で何回かしか話したことないし!好き、じゃないし!」
千穂が小さく吠えると、まあたしかにね、と楓も頷いていた。
そのまま、話題が変わっていって適当に相槌を打っていたけど、私の心には何かが引っかかったようだった。
何回かしか話したことないなら付き合ってお互いを知っていくのだって、別におかしくないのにな。
せっかく、かっこいいって噂されて、なにかに一生懸命頑張れるような素敵な男の子なのに勿体ない。
分かってる。
千穂が決めたことで、千穂の選択だから私が口を出すようなことじゃない。
だけど、王子様とお姫様のようなそんな甘い恋愛はできっこない。
なら、気持ちがなくったって、素敵な子相手なら好きになっていくかもしれないし、思い切ってみればいいのに。
千穂なら、そんな始まり方だって、相手から離れられるようなことは起きるわけないから。
なんて、長続きするような付き合いが出来た試しのないようなわたしに言われたって千穂も納得できないだろうな。
私も千穂と楓と同じくらい可愛くて美しかったら、と何度考えたか。
そしたらもう少し自信もあって、相手の人から見放されたりしないのかな。
2人との会話に相槌を打ちながら、ぼーっとしていた。
2人との会話は楽しいし嫌なところなんて一つもないのに、心の奥で彼女たちのことをこんなにも羨んで妬んでいる。
そんなことを考えながら、前髪を撫でた。
こんな気持ち、2人にはバレたくないな。
思考を放棄したくなって窓から中庭を見下ろすと、ある一点で目が止まった。
次の瞬間、一気に頭の中が真っ白になって、そして一色に塗り替えられた。
(あの人だ…。)
 どれだけ人がいても、込み入った場所でも、この人のことは1番に見つけてしまうのが不思議だ。
その人は複数人の男の子に囲まれながら自動販売機に向かって歩いていて、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
(笑ってる。かわいい…とか思ってみたり。)
早い鼓動を打つ左胸のブレザーを握りしめ、下唇を噛んだ。
あの太陽のような笑顔を向けられる女性はどんな人なんだろう。
どうすれば、彼にもっと近づけるんだろう。
どうすれば、私と同じように彼にも気づいてもらえるようになるんだろう。
もう、彼の中に溶け込んでしまいそうなほど、彼に見入っていた。
たしかあの日もわたしはこんなふうに彼を見つめていた。


桜の花が散って、青い葉っぱを木を覆うようになるころ。
終業のHRが終わった時のことだ。
教室が「駅前のワッフル食べ行こうよ。この前、インスタで見たやつ!」「えー行きたい!」とか、「来月の試合で当たる相手が、県3位のところなんだよな。」「うわ、引き悪いなあそれ。」とか、様々に盛りあがっていて、放課後特有の混雑が生まれていた。
かくいう私も楓と千穂と遊びの予定を立て少し浮かれていた。



「すみません、大野先生。」



先生が教室に残って荷物をまとめているところに、彼は来た。
(誰が来たのかな。)
教室の扉に背を向けるように座っていた私は、ただの興味で声の方を見た。 
そこには、青いラインの入った上靴を履いた彼がいて、先生となにか話し合っていた。
つり目気味で、むっと口を噤んでいて少しキツそうな印象だった。
(なんか怖そうな人。)
あまり見すぎたら怒鳴られるのでは、と想像したら恐ろしくなり視線を逸らそうと思った

途端、彼から目が離せなくなった。

(笑ってる。)

時が止まった。
いや、呼吸が止まった。
なんて素敵に笑う人なんだろうと思った。
キツい印象を持たせた目と眉を下げ、少し俯きがちに、くしゃりと笑う。
クラスの男の子から感じられない余裕のある雰囲気にもかかわらず、愛くるしいくらいに可愛いらしかった。
それはまるで、真っ白なキャンパスを鮮やかな絵の具で塗ったような、そんな衝撃があった。
そんな彼から目が離せる訳がなかった。
私の知らない世界の中に、こんなにも色鮮やかな素敵な事があるのだ。
そのまま先生への用事は終わったらしく、彼はくるりと背を向け教室から出ていった。
出ていった後も、私は教室の扉を見つめていた。
魔法にかかったようだった。
それは、一瞬を永遠に感じさせられる恋の魔法。
私はすっかりその魔法に酔わされてしまった。
でも、名前も知らないし、クラスも知らない。
知っているのは、あの優しい笑顔とひとつ年上ということだけ。
あの人と話してみたいって思って、もう数ヶ月がすぎてしまった。


「……何見てるの?桂花。」
 会話に混ざらなくなったわたしに楓が心配そうに声をかける。
「あーごめんごめん大丈夫ー」
 おどけてみたけど、いつもと様子の違うわたしを心配そうに見つめていた。
あー、と口ごもって目を泳がせていると、甘く濃厚な香りが鼻腔をくぐった。それを指さしてこういった。
「ほら、あれ!金木犀!良い香りがするなあって思ってさ。」
 嘘っぽすぎる言い訳だったけど、彼女らは「わあ、そういえば良い香り。」と笑顔をこぼし、そういえばさー、と話題が変わっていった。
ほっと息をついて、また、中庭に視線を移した。
もうその人の姿はなく、ただ、金木犀の濃厚な香りだけがそこにあった。
 自分が咄嗟に考えた嘘だったけど、その小柄な木は中庭のどの植木たちより魅力的で存在感があって、思わずうっとりしてしまう。
濃厚で甘い香りなのに、なんだかさっぱりとしてやさしい香りが心を柔らかく包んでくれる。
1度嗅いだら、忘れられない香り。
それはまるで、彼の笑顔のようだ。
あの時見たあの笑顔は、脳裏にずっと映り続けている。
思い出せば、何かに酔ったような、夢見心地になる。
その香りを嗅ぎながら、ブレザーの胸ポッケとから折りたたみ式の小さな鏡を取り出した。
そして、毛先をくるりと内巻きにした前髪を整えた。
金木犀の香りに酔った彼が、何かの間違いで私のことを見た時のために。