桂花の香りは千里先まで

高校に入学してすぐ探したのは、あの人の姿だった。
始業前の校舎。移動教室の渡り廊下。中庭。校庭。放課後の昇降口。
あの人の姿が見つけることができるかもしれない所では、ずっと周囲に意識が向いていた。
会えたら、なんて言おう。
ずっと好きだったあの人に、再会出来る。
高校でこそは、もっと近ずきたいって思っていた。


彼に出会ったのは、中学の部活。
選手として活躍するより、選手を支えたいと思っていた私は、サッカー部のマネージャーとして入部した。
本入部決定の挨拶で、部員の前で、一言話さなければならない時があった。
当時、人前で話すのが苦手だった私は、異常なほど緊張していた。
冷や汗が出て、唇がガタガタと震えた。
怖くて、トイレに逃げようかと思ったとき、隣の席に座っていた男の子に、腕をつつかれた。
驚いて、そちらを向くと、千里先輩がいた。
『大丈夫?無理しなくていいよ。』
心配そうに、顔を覗き込む彼と目が合った。
『だ、だいじょぶです。』
大丈夫とは言えないくらいかすれていた声で言うと、彼はにこっと笑った。
その笑顔を見たら、ぱっと震えが止まった。
安心させてくれる優しい笑顔だった。
暖かくて、何でも受け入れてくれそうな。
『次の人ー。』
当時の部長が私に目を向けて、急かすように言った。
瞬間、また身体が震えた。
人前に立って、何かしくじってしまうことに異常なくらい恐怖感があった。
怖くて怖くて怖くて。
目が潤んで、涙がこぼれそうになったとき。
『がんばってね。』
彼はそう言って、にかっと笑った。
その笑顔に背中を押された。
結局みんなの前ではおどおどとしてしまい、盛大に噛んでしまった。
恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思っていた。
部員にもくすくすと笑われてしまい、『赤面』どころじゃないくらい、赤くなっていただろう。
席に着くと、彼はまた私の腕をつついた。
『お疲れ!』
親指を立てて、柔らかな笑みを浮かべたあの時の彼に、恋をした。


高校入学。


4月の初め。
いつもは飲まないようにしているけど、どうしても甘いジュースが飲みたくなった。
そして、たまたま入った購買で、ずっと探していたあの人を見つけた。
私が好きだったころと同じ、ふわふわした髪の毛と天使のような柔らかな笑顔。
見逃すはずも、見間違えるはずもなかった。
やっと、会えた。
彼の目だけを見つめていた。
すると、彼はすっと視線を滑らせて、私を捉えた。
「…せ、んり」
緊張して、かすれた声であの人の名前を口に出した。
暖かいココアを飲んだみたいに、心が甘く、暖かくなった。
鼓動が高鳴る。
思わず目が潤んだ。
ああ、懐かしい。やっと、会えたんだ。
やっと、気持ちを伝えられる。
彼は手を振って、小走りでこちらに向かってきた。
あまりにも嬉しくて、雫が零れてしまいそうだった。
「久しぶ…り……え?」
彼は、まるで私のことなんて見えてないみたいに通り過ぎて、そのまま私より数メートル後ろにいた友人の元へ駆け寄った。
「お前ら早いって。置いてくなよ。」
「お前が遅いんだよ。俺らゆっくり歩いてたわ。」
「めんどくさい委員会になって萎えてたからな。速度がいつもよりも遅い。」
「文化祭実行委員だろ?」
「うるせーよ。あー委員会とかだるいわ。」
彼らの友達が、大声でわらって、彼もまた声を出して笑った。
まるで、勘違いしている私をあざ笑っているかのようだった。そんなこと絶対にないのだけれど。
思っていたのと全然違いすぎて、驚いている自分がいた。
足が勝手に出口の方へ進んでいた。
(…声が聞こえなかっただけかも。……あ、髪だってあの頃よりはもうずっと長いし……。)
自動販売機からゆっくり離れる私と、自動販売機に早足で向かうあの人。
一歩進めば進むほど、距離が遠ざかっていく。
ああ、私の恋はとっくに終わっているんだ。


5月の末。
また彼と会った。
うちの教室に入ってきた彼は、先生と楽しそうに話していた。
今度こそ、話しかけよう、そう思った。
あの頃の気持ちを伝えるには、まず、私ってわかってもらわなきゃ。
すっかり心が勇み立っていた私は、興奮気味に、桂花と千穂に目を移した。
彼女らと遊ぶ約束をしていた所だったから、一言声をかけて、彼を追いかけようと思ったからだ。
そして、隣に座っていた彼女の顔を見て、開こうとしていた口を閉じた。
彼女は、━━━━桂花は、あの人の背中をじっと見つめていた。
その目を見て、分かった。
恋をする目だ。
あの時私にかけたみたいな、甘い笑顔からなる魔法。
あの人はまた、魔法をかけたんだ。
分かる、見れば。
だって、あの頃の私と同じ目だから。


8月の末。
千穂が高橋を振ったあの日。
いつもは明るく会話に入ってくるはずの桂花が黙っていた。
変だなって思って見たら、彼女はある一点を見つめていた。
のめり込んでしまいそうなほど、熱くてとろけそうな、眼差し。
その視線の先を追うと、やっぱりあの人がいた。
桂花はふと目を逸らして、左胸をぐっと握りしめた。
恋をしてるいる横顔だった。
暖かくて優しい。それで、少し切ない。
何で、恋をしている子は、こんなに可愛いんだろう。
頬は少し紅潮していて、手は何か大切なものを大事に握るようだった。
(いや、いやいやいやいや。大丈夫。千里とは私の方が仲良いし。)
少し焦った。
こんなのアドバンテージにもならない。
そして、中庭を歩く彼の方に目を向けた。
「………え」
かすれて震えた声が出た。
自分でもこんな声が出ることを知らなかった。
彼の横顔は、私の隣に座っている桂花をはっきりと捉えていて、私の知らない笑顔を見せた。
そんな顔知らないよ。
ねぇ、なんで?
私の方が、ずっと前から彼のことを想っていたのに。
なんで、桂花なの。
彼女らの、私が割り込めないくらい通じあってるような横顔を見て、嫌な感情がふつふつと湧いてきた。
ずっと好きでいたのに。
私のモノなんだってば、千里先輩は。
「……何見てるの?桂花」
千里のこと、そんな目で見ないでよ。
お願い、桂花。
変になるよ、私。


9月の末。
4月の彼らの会話の盗み聞きから、彼が文化祭実行委員ってことは知っていた。
そして、桂花が彼のことを目で追ってるのだって、知っていた。
今日は、文化祭実行委員の集まりの日だ。
桂花と、千里が、今まで以上に近づいてしまうかもしれない日だ。
いやだ。
行かせたくない。
私の唯一勝っている点が無くなってしまう。
「ねぇ、今日遊ばない?」
千穂が明るく弾んだ声で、話しかけてきた。
彼女との会話で、わはは、と嘘っぽく豪快に笑って、醜い胸の内を隠した。
千穂、お願い。
もっと、強く誘って。桂花が断れないくらいに。
お願い、桂花を嫌いになりたくない。
桂花を千里先輩の元に行かせたくない。
千里先輩を桂花のモノにしたくない。
そう思って、ハッとした。
私は、何を考えてるんだろう。
桂花はモノじゃない。
千里だって、違う。
桂花は親友だ。入学式にみんなが酷く緊張していて、その中でも明るく笑顔で話しかけてくれた。
その笑顔は今も忘れられない。
桂花も緊張してるはずなのに、怖いくせに、少し潤んだ瞳で、優しく眉を下げて、笑う。
その笑顔は、まさに、千里先輩にそっくりだった。

彼の笑みを思い出して、ああ、と腑に落ちた。

「…てか、桂花委員会じゃないっけ、今日」
気づいたら、そう答えていた。
千里と桂花は一緒なんだ。
最初から、私が割り込めるはずは無かったんだ。
私は、桂花のように、真っ直ぐじゃない。
怖がりで、人任せで、逃げて、逃げて逃げて逃げてばかりだ。
それがバレないように、がさつにサバサバと振る舞う。
大好きな人は、桂花みたいな素敵な人と一緒にいてほしい。
私みたいな、腐りきった人間には、千里先輩を巻き込みたくない。
「そっかそっかまた今度だね〜。」
この恋は終わりにしよう。
恋とは呼べない、濁った執着のようなものは。
「頑張ってこい」
頑張って、桂花。
千里先輩を真っ直ぐに愛してよ。
━━━━━━私とは違うあなたの温かさで。
桂花が出ていったあと、千穂はずっとうずうずとしていて、やっと口を開いた。
「……楓、大丈夫?顔色、悪いよ。」
「大丈夫だよ、ごめんね千穂。今日は私も用事があるんだ。」
そう早口でまくし立てて、カバンやパーカーを持って教室から逃げるように出ていった。
そうでもしないと、取り留めのない思いが溢れそうだったから。
ごめんね、千穂。
ごめんね、桂花。
応援したいから。
応援するから。
今日までは、千里先輩のこと、大好きで居させて。

文化祭当日。
桂花を見ると、なんだか気持ちが落ち込んだ。
赤と白のストライプのアメリカンワンピースを着ていて、胸の長さまである髪を巻き下ろしていた。
可愛いな。
私は、きつい顔をしているから、赤と白は似合わない。
せめて、と思って、青と白のものを選んだ。
だけど、ふりふりのスカートやふわっと膨らんだ袖は、やっぱり似合わない。
千里先輩とは、彼女のように可愛らしい人の方が、合う。
傍から見ても、私の恋は否定されるものでしかないと思う。
「…楓ー!シフト、私に変わったから。」
「おお!桂花となら、ちょっと安心。頑張ろーね。」
半分ほんとで、半分嘘だ。
確かに、桂花は責任感が強いし、頼りがいがある。
だけど、やっぱり彼女に隠し事をしている後ろめたさがあって、少し気まずくもある。
「楓、衣装とっても似合うね。」
桂花は唐突に言った。
お世辞にも可愛いとは言えないのに。
「えぇ、そう?私には少し可愛すぎて、ちょっと浮いてるよ。桂花の方が、よく似合っている。」
「あはは、そんなことない……」
本当のことを言ったのに、彼女は俯きがちに力なく笑った。
そんなことあるって。
私なんかより、桂花が千里先輩とお似合いなんだもん。
何がそんなに不満そうなの。
それ以上嬉しいことってある?
「……きっと、可愛いって言ってくれるよ!桂花の好きな人も!」
「いやいや、ありえないよー。」
ありえなくない。
千里先輩だって、可愛いって、絶対言うよ?
「てか、後夜祭誘った!?」
「まだ、だけど。」
いいの?うだうだしてて。
私が横からかっさらってもいいの?
「もー他の子に先越されたらどうするの!」
「……あ、でも私もう、」
「ん?……あいらっしゃいませー!」
ねえ、なんて言うつもり?
諦めるなんて言わないよね?
私は、桂花と千里先輩が幸せになって欲しかったのに。
桂花が諦めるなんていったら、私が気持ちを押し込めた意味無くなっちゃうじゃん。
桂花の気持ちだし、私が言う立場にはいない。
だけど、じゃあ、私の気持ちはどうなるの?
行き場の失った気持ちが、ぐるぐると渦巻いて、そのまま破裂しそうだった。
暴走する気持ちを、なんとか押し込めて笑っていた。
「…あ、いらっしゃいませー、何名です…って千里先輩?」
桂花のその言葉を聞いて、もう、爆発寸前だった。
見せつけてるの?
人の気も知らないで。
気持ちを隠すのに必死だった。
もう、笑顔も引きっつっている。
「えっと……、楓!これ届けておいて。」
急に名前を呼ばれて、我に返った。
「おっけい、任せて。」
そう言って、商品を受け取ると、それは千里先輩たちのテーブルのものだった。
やだ。
彼と話したくない。
いや、話したかった。
ずっと、もっとちゃんと話したいって。
だけど、気持ちが溢れて、無理やりにでも奪い取りたくなってしまうと思う。
話したくないよ。
「どーぞ。こちら注文した商品でーす。」
にこやかな仮面を張り付けて、彼らのテーブルに商品を置いた。
「どーもどーも。……ねえ、てか、インスタやってる?教えてよ!」
妬み嫉みで溜まったもやもやが、その一言で、決壊したようにイライラが爆発した。
今言うな。てか、言うな。
笑顔で悪態を着いてやろう。
そのヘラヘラした笑顔を、二度と女の子に向けられないくらい、その根性へし折ってやろう。
「えっとー…」
「おい、やめとけって。」
まず何を罵ろうかと笑うと、私の目の前と彼らの間に手のひらが入った。
「ばーか。やめとけ。てか、お前は彼女いるだろ。」
千里先輩がその中の1人の男の子に言うと、彼らは「つまんねーのー。」とけたけたと笑った。
(元々、面白くもなんもないっつーの。)
失礼しまーす、とにこりと笑らって席から離れようとした。
すると、「あ、楓。」と、名前を呼ばれた。
驚いて勢いよく振り向くと、視線がばちっとぶつかった。
ずっと、ずっと、大好きだったあの声だ。
何度、想像したか。
ああ、嬉しい。
嬉しいのに。
嬉しくない。
彼は私の目を見ていたけれど、気持ちは桂花の方ばかりを向いているのが分かった。
そんな目、向けられない方がマシだ。
「なんですか?」
感情を押し殺した笑みを浮かべた。
「……えっと、俺ずっとお礼が言いたくて。ありがとな。」
「なんの事ですか?」
正直、彼の言っている『お礼』っていうのは1ミリも心当たりがない。
なんのことを言っているのか、さっぱりだ。
「ああ、えっとー。」
「なんのことか分からないですけど、全然いいですよ。気にしないでください。」
彼はしどろもどろに困ったような顔をしていた。
ちくりと心が痛くなった。
「…あ、そう言えば、楓。あのさ、後夜祭って、何かあるの?」
これは誘われているのだろうか。
勘違いする。
そんなことなんて絶対ありえないんだから、期待するようなこと言わないでよ。
「何かって言うのは、なんでしょう。」
「なんか、伝説?言い伝え?みたいな?そういうの、あるの?」
ああ、そういうことか。
その彼の様子が、あまりにも間抜けで、ふっと声が出た。
「ありますよ、ジンクス。先輩、情弱ですね。」
「うるせーな。で、なんなんだよ。」
「『後夜祭の花火を見た2人組は幸せになれる』ですよ。」
彼は少し頬を紅潮させて、「へー。」と興味無さそうにそっぽ向いた。
でも、耳は真っ赤になっていた。
その視線の先には、桂花がいた。
彼は、後頭部に手を当てた。
子供っぽいその様子に、思わず吹き出してしまった。
そして、彼の目をしっかりと見て、言った。
「桂花のこと、誘ったらどうですか?」
「っえ!……いや、いやいやなんでだよ。」
思ったよりも慌てていて、さらに笑った。
「誘ったらいいのに。」
「いや!……いや、まあ。考えとくよ。」
考えとくのか。
一瞬そう思ったけれど、でも、彼の桂花を見る目をみたら、なんだか、もやもやとしていた気持ちが一気に晴れた。
「きっと、おっけーって言ってくれますよ!」
「ど、どうかな。」
「あははは!戸惑いすぎ!」
「ばかにしすぎだ。」
「それでは、戻りますね。」そう声をかけて、くるりと振り向くと、「楓!」とまた呼び止められた。
彼の方を見ると、
「楓、ありがとな!」
と、にかっと笑った。
あの時の笑顔と変わらない、大好きな笑顔だ。
それをみて、ああ、私は失恋したんだと、やっとそう思えた。
彼が、この笑顔を向けるのは桂花しか、いないんだ。
暗くなるはずの気持ちは、雲が晴れていくようにすっきりとしていた。
納得しているような、腑に落ちているような。
桂花、頑張りなよ。
千里先輩、頑張ってよ。
2人だったら、絶対に幸せになれるから。
ごめんね、上手くいかないことを望んでいて。
ごめんね、先輩を私のモノだって思っていて。
ごめんね、邪魔ばっかりして。
千里先輩、ありがとう。
千里先輩だから、貴方だから、好きになりました。
飛び出した桂花を追って、飛び出していく彼の背中を見ながら、そう思っていた。