高校に入学してすぐ探したのは、あの人の姿だった。
始業前の校舎。移動教室の渡り廊下。中庭。校庭。放課後の昇降口。
あの人の姿が見つけることができるかもしれない所では、ずっと周囲に意識が向いていた。
会えたら、なんて言おう。
ずっと好きだったあの人に、再会出来る。
高校でこそは、もっと近ずきたいって思っていた。
彼に出会ったのは、中学の部活。
選手として活躍するより、選手を支えたいと思っていた私は、サッカー部のマネージャーとして入部した。
本入部決定の挨拶で、部員の前で、一言話さなければならない時があった。
当時、人前で話すのが苦手だった私は、異常なほど緊張していた。
冷や汗が出て、唇がガタガタと震えた。
怖くて、トイレに逃げようかと思ったとき、隣の席に座っていた男の子に、腕をつつかれた。
驚いて、そちらを向くと、千里先輩がいた。
『大丈夫?無理しなくていいよ。』
心配そうに、顔を覗き込む彼と目が合った。
『だ、だいじょぶです。』
大丈夫とは言えないくらいかすれていた声で言うと、彼はにこっと笑った。
その笑顔を見たら、ぱっと震えが止まった。
安心させてくれる優しい笑顔だった。
暖かくて、何でも受け入れてくれそうな。
『次の人ー。』
当時の部長が私に目を向けて、急かすように言った。
瞬間、また身体が震えた。
人前に立って、何かしくじってしまうことに異常なくらい恐怖感があった。
怖くて怖くて怖くて。
目が潤んで、涙がこぼれそうになったとき。
『がんばってね。』
彼はそう言って、にかっと笑った。
その笑顔に背中を押された。
結局みんなの前ではおどおどとしてしまい、盛大に噛んでしまった。
恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思っていた。
部員にもくすくすと笑われてしまい、『赤面』どころじゃないくらい、赤くなっていただろう。
席に着くと、彼はまた私の腕をつついた。
『お疲れ!』
親指を立てて、柔らかな笑みを浮かべたあの時の彼に、恋をした。
高校入学。
4月の初め。
いつもは飲まないようにしているけど、どうしても甘いジュースが飲みたくなった。
そして、たまたま入った購買で、ずっと探していたあの人を見つけた。
私が好きだったころと同じ、ふわふわした髪の毛と天使のような柔らかな笑顔。
見逃すはずも、見間違えるはずもなかった。
やっと、会えた。
彼の目だけを見つめていた。
すると、彼はすっと視線を滑らせて、私を捉えた。
「…せ、んり」
緊張して、かすれた声であの人の名前を口に出した。
暖かいココアを飲んだみたいに、心が甘く、暖かくなった。
鼓動が高鳴る。
思わず目が潤んだ。
ああ、懐かしい。やっと、会えたんだ。
やっと、気持ちを伝えられる。
彼は手を振って、小走りでこちらに向かってきた。
あまりにも嬉しくて、雫が零れてしまいそうだった。
「久しぶ…り……え?」
彼は、まるで私のことなんて見えてないみたいに通り過ぎて、そのまま私より数メートル後ろにいた友人の元へ駆け寄った。
「お前ら早いって。置いてくなよ。」
「お前が遅いんだよ。俺らゆっくり歩いてたわ。」
「めんどくさい委員会になって萎えてたからな。速度がいつもよりも遅い。」
「文化祭実行委員だろ?」
「うるせーよ。あー委員会とかだるいわ。」
彼らの友達が、大声でわらって、彼もまた声を出して笑った。
まるで、勘違いしている私をあざ笑っているかのようだった。そんなこと絶対にないのだけれど。
思っていたのと全然違いすぎて、驚いている自分がいた。
足が勝手に出口の方へ進んでいた。
(…声が聞こえなかっただけかも。……あ、髪だってあの頃よりはもうずっと長いし……。)
自動販売機からゆっくり離れる私と、自動販売機に早足で向かうあの人。
一歩進めば進むほど、距離が遠ざかっていく。
ああ、私の恋はとっくに終わっているんだ。
5月の末。
また彼と会った。
うちの教室に入ってきた彼は、先生と楽しそうに話していた。
今度こそ、話しかけよう、そう思った。
あの頃の気持ちを伝えるには、まず、私ってわかってもらわなきゃ。
すっかり心が勇み立っていた私は、興奮気味に、桂花と千穂に目を移した。
彼女らと遊ぶ約束をしていた所だったから、一言声をかけて、彼を追いかけようと思ったからだ。
そして、隣に座っていた彼女の顔を見て、開こうとしていた口を閉じた。
彼女は、━━━━桂花は、あの人の背中をじっと見つめていた。
その目を見て、分かった。
恋をする目だ。
あの時私にかけたみたいな、甘い笑顔からなる魔法。
あの人はまた、魔法をかけたんだ。
分かる、見れば。
だって、あの頃の私と同じ目だから。
8月の末。
千穂が高橋を振ったあの日。
いつもは明るく会話に入ってくるはずの桂花が黙っていた。
変だなって思って見たら、彼女はある一点を見つめていた。
のめり込んでしまいそうなほど、熱くてとろけそうな、眼差し。
その視線の先を追うと、やっぱりあの人がいた。
桂花はふと目を逸らして、左胸をぐっと握りしめた。
恋をしてるいる横顔だった。
暖かくて優しい。それで、少し切ない。
何で、恋をしている子は、こんなに可愛いんだろう。
頬は少し紅潮していて、手は何か大切なものを大事に握るようだった。
(いや、いやいやいやいや。大丈夫。千里とは私の方が仲良いし。)
少し焦った。
こんなのアドバンテージにもならない。
そして、中庭を歩く彼の方に目を向けた。
「………え」
かすれて震えた声が出た。
自分でもこんな声が出ることを知らなかった。
彼の横顔は、私の隣に座っている桂花をはっきりと捉えていて、私の知らない笑顔を見せた。
そんな顔知らないよ。
ねぇ、なんで?
私の方が、ずっと前から彼のことを想っていたのに。
なんで、桂花なの。
彼女らの、私が割り込めないくらい通じあってるような横顔を見て、嫌な感情がふつふつと湧いてきた。
ずっと好きでいたのに。
私のモノなんだってば、千里先輩は。
「……何見てるの?桂花」
千里のこと、そんな目で見ないでよ。
お願い、桂花。
変になるよ、私。
9月の末。
4月の彼らの会話の盗み聞きから、彼が文化祭実行委員ってことは知っていた。
そして、桂花が彼のことを目で追ってるのだって、知っていた。
今日は、文化祭実行委員の集まりの日だ。
桂花と、千里が、今まで以上に近づいてしまうかもしれない日だ。
いやだ。
行かせたくない。
私の唯一勝っている点が無くなってしまう。
「ねぇ、今日遊ばない?」
千穂が明るく弾んだ声で、話しかけてきた。
彼女との会話で、わはは、と嘘っぽく豪快に笑って、醜い胸の内を隠した。
千穂、お願い。
もっと、強く誘って。桂花が断れないくらいに。
お願い、桂花を嫌いになりたくない。
桂花を千里先輩の元に行かせたくない。
千里先輩を桂花のモノにしたくない。
そう思って、ハッとした。
私は、何を考えてるんだろう。
桂花はモノじゃない。
千里だって、違う。
桂花は親友だ。入学式にみんなが酷く緊張していて、その中でも明るく笑顔で話しかけてくれた。
その笑顔は今も忘れられない。
桂花も緊張してるはずなのに、怖いくせに、少し潤んだ瞳で、優しく眉を下げて、笑う。
その笑顔は、まさに、千里先輩にそっくりだった。
彼の笑みを思い出して、ああ、と腑に落ちた。
「…てか、桂花委員会じゃないっけ、今日」
気づいたら、そう答えていた。
千里と桂花は一緒なんだ。
最初から、私が割り込めるはずは無かったんだ。
私は、桂花のように、真っ直ぐじゃない。
怖がりで、人任せで、逃げて、逃げて逃げて逃げてばかりだ。
それがバレないように、がさつにサバサバと振る舞う。
大好きな人は、桂花みたいな素敵な人と一緒にいてほしい。
私みたいな、腐りきった人間には、千里先輩を巻き込みたくない。
「そっかそっかまた今度だね〜。」
この恋は終わりにしよう。
恋とは呼べない、濁った執着のようなものは。
「頑張ってこい」
頑張って、桂花。
千里先輩を真っ直ぐに愛してよ。
━━━━━━私とは違うあなたの温かさで。
桂花が出ていったあと、千穂はずっとうずうずとしていて、やっと口を開いた。
「……楓、大丈夫?顔色、悪いよ。」
「大丈夫だよ、ごめんね千穂。今日は私も用事があるんだ。」
そう早口でまくし立てて、カバンやパーカーを持って教室から逃げるように出ていった。
そうでもしないと、取り留めのない思いが溢れそうだったから。
ごめんね、千穂。
ごめんね、桂花。
応援したいから。
応援するから。
今日までは、千里先輩のこと、大好きで居させて。
文化祭当日。
桂花を見ると、なんだか気持ちが落ち込んだ。
赤と白のストライプのアメリカンワンピースを着ていて、胸の長さまである髪を巻き下ろしていた。
可愛いな。
私は、きつい顔をしているから、赤と白は似合わない。
せめて、と思って、青と白のものを選んだ。
だけど、ふりふりのスカートやふわっと膨らんだ袖は、やっぱり似合わない。
千里先輩とは、彼女のように可愛らしい人の方が、合う。
傍から見ても、私の恋は否定されるものでしかないと思う。
「…楓ー!シフト、私に変わったから。」
「おお!桂花となら、ちょっと安心。頑張ろーね。」
半分ほんとで、半分嘘だ。
確かに、桂花は責任感が強いし、頼りがいがある。
だけど、やっぱり彼女に隠し事をしている後ろめたさがあって、少し気まずくもある。
「楓、衣装とっても似合うね。」
桂花は唐突に言った。
お世辞にも可愛いとは言えないのに。
「えぇ、そう?私には少し可愛すぎて、ちょっと浮いてるよ。桂花の方が、よく似合っている。」
「あはは、そんなことない……」
本当のことを言ったのに、彼女は俯きがちに力なく笑った。
そんなことあるって。
私なんかより、桂花が千里先輩とお似合いなんだもん。
何がそんなに不満そうなの。
それ以上嬉しいことってある?
「……きっと、可愛いって言ってくれるよ!桂花の好きな人も!」
「いやいや、ありえないよー。」
ありえなくない。
千里先輩だって、可愛いって、絶対言うよ?
「てか、後夜祭誘った!?」
「まだ、だけど。」
いいの?うだうだしてて。
私が横からかっさらってもいいの?
「もー他の子に先越されたらどうするの!」
「……あ、でも私もう、」
「ん?……あいらっしゃいませー!」
ねえ、なんて言うつもり?
諦めるなんて言わないよね?
私は、桂花と千里先輩が幸せになって欲しかったのに。
桂花が諦めるなんていったら、私が気持ちを押し込めた意味無くなっちゃうじゃん。
桂花の気持ちだし、私が言う立場にはいない。
だけど、じゃあ、私の気持ちはどうなるの?
行き場の失った気持ちが、ぐるぐると渦巻いて、そのまま破裂しそうだった。
暴走する気持ちを、なんとか押し込めて笑っていた。
「…あ、いらっしゃいませー、何名です…って千里先輩?」
桂花のその言葉を聞いて、もう、爆発寸前だった。
見せつけてるの?
人の気も知らないで。
気持ちを隠すのに必死だった。
もう、笑顔も引きっつっている。
「えっと……、楓!これ届けておいて。」
急に名前を呼ばれて、我に返った。
「おっけい、任せて。」
そう言って、商品を受け取ると、それは千里先輩たちのテーブルのものだった。
やだ。
彼と話したくない。
いや、話したかった。
ずっと、もっとちゃんと話したいって。
だけど、気持ちが溢れて、無理やりにでも奪い取りたくなってしまうと思う。
話したくないよ。
「どーぞ。こちら注文した商品でーす。」
にこやかな仮面を張り付けて、彼らのテーブルに商品を置いた。
「どーもどーも。……ねえ、てか、インスタやってる?教えてよ!」
妬み嫉みで溜まったもやもやが、その一言で、決壊したようにイライラが爆発した。
今言うな。てか、言うな。
笑顔で悪態を着いてやろう。
そのヘラヘラした笑顔を、二度と女の子に向けられないくらい、その根性へし折ってやろう。
「えっとー…」
「おい、やめとけって。」
まず何を罵ろうかと笑うと、私の目の前と彼らの間に手のひらが入った。
「ばーか。やめとけ。てか、お前は彼女いるだろ。」
千里先輩がその中の1人の男の子に言うと、彼らは「つまんねーのー。」とけたけたと笑った。
(元々、面白くもなんもないっつーの。)
失礼しまーす、とにこりと笑らって席から離れようとした。
すると、「あ、楓。」と、名前を呼ばれた。
驚いて勢いよく振り向くと、視線がばちっとぶつかった。
ずっと、ずっと、大好きだったあの声だ。
何度、想像したか。
ああ、嬉しい。
嬉しいのに。
嬉しくない。
彼は私の目を見ていたけれど、気持ちは桂花の方ばかりを向いているのが分かった。
そんな目、向けられない方がマシだ。
「なんですか?」
感情を押し殺した笑みを浮かべた。
「……えっと、俺ずっとお礼が言いたくて。ありがとな。」
「なんの事ですか?」
正直、彼の言っている『お礼』っていうのは1ミリも心当たりがない。
なんのことを言っているのか、さっぱりだ。
「ああ、えっとー。」
「なんのことか分からないですけど、全然いいですよ。気にしないでください。」
彼はしどろもどろに困ったような顔をしていた。
ちくりと心が痛くなった。
「…あ、そう言えば、楓。あのさ、後夜祭って、何かあるの?」
これは誘われているのだろうか。
勘違いする。
そんなことなんて絶対ありえないんだから、期待するようなこと言わないでよ。
「何かって言うのは、なんでしょう。」
「なんか、伝説?言い伝え?みたいな?そういうの、あるの?」
ああ、そういうことか。
その彼の様子が、あまりにも間抜けで、ふっと声が出た。
「ありますよ、ジンクス。先輩、情弱ですね。」
「うるせーな。で、なんなんだよ。」
「『後夜祭の花火を見た2人組は幸せになれる』ですよ。」
彼は少し頬を紅潮させて、「へー。」と興味無さそうにそっぽ向いた。
でも、耳は真っ赤になっていた。
その視線の先には、桂花がいた。
彼は、後頭部に手を当てた。
子供っぽいその様子に、思わず吹き出してしまった。
そして、彼の目をしっかりと見て、言った。
「桂花のこと、誘ったらどうですか?」
「っえ!……いや、いやいやなんでだよ。」
思ったよりも慌てていて、さらに笑った。
「誘ったらいいのに。」
「いや!……いや、まあ。考えとくよ。」
考えとくのか。
一瞬そう思ったけれど、でも、彼の桂花を見る目をみたら、なんだか、もやもやとしていた気持ちが一気に晴れた。
「きっと、おっけーって言ってくれますよ!」
「ど、どうかな。」
「あははは!戸惑いすぎ!」
「ばかにしすぎだ。」
「それでは、戻りますね。」そう声をかけて、くるりと振り向くと、「楓!」とまた呼び止められた。
彼の方を見ると、
「楓、ありがとな!」
と、にかっと笑った。
あの時の笑顔と変わらない、大好きな笑顔だ。
それをみて、ああ、私は失恋したんだと、やっとそう思えた。
彼が、この笑顔を向けるのは桂花しか、いないんだ。
暗くなるはずの気持ちは、雲が晴れていくようにすっきりとしていた。
納得しているような、腑に落ちているような。
桂花、頑張りなよ。
千里先輩、頑張ってよ。
2人だったら、絶対に幸せになれるから。
ごめんね、上手くいかないことを望んでいて。
ごめんね、先輩を私のモノだって思っていて。
ごめんね、邪魔ばっかりして。
千里先輩、ありがとう。
千里先輩だから、貴方だから、好きになりました。
飛び出した桂花を追って、飛び出していく彼の背中を見ながら、そう思っていた。
始業前の校舎。移動教室の渡り廊下。中庭。校庭。放課後の昇降口。
あの人の姿が見つけることができるかもしれない所では、ずっと周囲に意識が向いていた。
会えたら、なんて言おう。
ずっと好きだったあの人に、再会出来る。
高校でこそは、もっと近ずきたいって思っていた。
彼に出会ったのは、中学の部活。
選手として活躍するより、選手を支えたいと思っていた私は、サッカー部のマネージャーとして入部した。
本入部決定の挨拶で、部員の前で、一言話さなければならない時があった。
当時、人前で話すのが苦手だった私は、異常なほど緊張していた。
冷や汗が出て、唇がガタガタと震えた。
怖くて、トイレに逃げようかと思ったとき、隣の席に座っていた男の子に、腕をつつかれた。
驚いて、そちらを向くと、千里先輩がいた。
『大丈夫?無理しなくていいよ。』
心配そうに、顔を覗き込む彼と目が合った。
『だ、だいじょぶです。』
大丈夫とは言えないくらいかすれていた声で言うと、彼はにこっと笑った。
その笑顔を見たら、ぱっと震えが止まった。
安心させてくれる優しい笑顔だった。
暖かくて、何でも受け入れてくれそうな。
『次の人ー。』
当時の部長が私に目を向けて、急かすように言った。
瞬間、また身体が震えた。
人前に立って、何かしくじってしまうことに異常なくらい恐怖感があった。
怖くて怖くて怖くて。
目が潤んで、涙がこぼれそうになったとき。
『がんばってね。』
彼はそう言って、にかっと笑った。
その笑顔に背中を押された。
結局みんなの前ではおどおどとしてしまい、盛大に噛んでしまった。
恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思っていた。
部員にもくすくすと笑われてしまい、『赤面』どころじゃないくらい、赤くなっていただろう。
席に着くと、彼はまた私の腕をつついた。
『お疲れ!』
親指を立てて、柔らかな笑みを浮かべたあの時の彼に、恋をした。
高校入学。
4月の初め。
いつもは飲まないようにしているけど、どうしても甘いジュースが飲みたくなった。
そして、たまたま入った購買で、ずっと探していたあの人を見つけた。
私が好きだったころと同じ、ふわふわした髪の毛と天使のような柔らかな笑顔。
見逃すはずも、見間違えるはずもなかった。
やっと、会えた。
彼の目だけを見つめていた。
すると、彼はすっと視線を滑らせて、私を捉えた。
「…せ、んり」
緊張して、かすれた声であの人の名前を口に出した。
暖かいココアを飲んだみたいに、心が甘く、暖かくなった。
鼓動が高鳴る。
思わず目が潤んだ。
ああ、懐かしい。やっと、会えたんだ。
やっと、気持ちを伝えられる。
彼は手を振って、小走りでこちらに向かってきた。
あまりにも嬉しくて、雫が零れてしまいそうだった。
「久しぶ…り……え?」
彼は、まるで私のことなんて見えてないみたいに通り過ぎて、そのまま私より数メートル後ろにいた友人の元へ駆け寄った。
「お前ら早いって。置いてくなよ。」
「お前が遅いんだよ。俺らゆっくり歩いてたわ。」
「めんどくさい委員会になって萎えてたからな。速度がいつもよりも遅い。」
「文化祭実行委員だろ?」
「うるせーよ。あー委員会とかだるいわ。」
彼らの友達が、大声でわらって、彼もまた声を出して笑った。
まるで、勘違いしている私をあざ笑っているかのようだった。そんなこと絶対にないのだけれど。
思っていたのと全然違いすぎて、驚いている自分がいた。
足が勝手に出口の方へ進んでいた。
(…声が聞こえなかっただけかも。……あ、髪だってあの頃よりはもうずっと長いし……。)
自動販売機からゆっくり離れる私と、自動販売機に早足で向かうあの人。
一歩進めば進むほど、距離が遠ざかっていく。
ああ、私の恋はとっくに終わっているんだ。
5月の末。
また彼と会った。
うちの教室に入ってきた彼は、先生と楽しそうに話していた。
今度こそ、話しかけよう、そう思った。
あの頃の気持ちを伝えるには、まず、私ってわかってもらわなきゃ。
すっかり心が勇み立っていた私は、興奮気味に、桂花と千穂に目を移した。
彼女らと遊ぶ約束をしていた所だったから、一言声をかけて、彼を追いかけようと思ったからだ。
そして、隣に座っていた彼女の顔を見て、開こうとしていた口を閉じた。
彼女は、━━━━桂花は、あの人の背中をじっと見つめていた。
その目を見て、分かった。
恋をする目だ。
あの時私にかけたみたいな、甘い笑顔からなる魔法。
あの人はまた、魔法をかけたんだ。
分かる、見れば。
だって、あの頃の私と同じ目だから。
8月の末。
千穂が高橋を振ったあの日。
いつもは明るく会話に入ってくるはずの桂花が黙っていた。
変だなって思って見たら、彼女はある一点を見つめていた。
のめり込んでしまいそうなほど、熱くてとろけそうな、眼差し。
その視線の先を追うと、やっぱりあの人がいた。
桂花はふと目を逸らして、左胸をぐっと握りしめた。
恋をしてるいる横顔だった。
暖かくて優しい。それで、少し切ない。
何で、恋をしている子は、こんなに可愛いんだろう。
頬は少し紅潮していて、手は何か大切なものを大事に握るようだった。
(いや、いやいやいやいや。大丈夫。千里とは私の方が仲良いし。)
少し焦った。
こんなのアドバンテージにもならない。
そして、中庭を歩く彼の方に目を向けた。
「………え」
かすれて震えた声が出た。
自分でもこんな声が出ることを知らなかった。
彼の横顔は、私の隣に座っている桂花をはっきりと捉えていて、私の知らない笑顔を見せた。
そんな顔知らないよ。
ねぇ、なんで?
私の方が、ずっと前から彼のことを想っていたのに。
なんで、桂花なの。
彼女らの、私が割り込めないくらい通じあってるような横顔を見て、嫌な感情がふつふつと湧いてきた。
ずっと好きでいたのに。
私のモノなんだってば、千里先輩は。
「……何見てるの?桂花」
千里のこと、そんな目で見ないでよ。
お願い、桂花。
変になるよ、私。
9月の末。
4月の彼らの会話の盗み聞きから、彼が文化祭実行委員ってことは知っていた。
そして、桂花が彼のことを目で追ってるのだって、知っていた。
今日は、文化祭実行委員の集まりの日だ。
桂花と、千里が、今まで以上に近づいてしまうかもしれない日だ。
いやだ。
行かせたくない。
私の唯一勝っている点が無くなってしまう。
「ねぇ、今日遊ばない?」
千穂が明るく弾んだ声で、話しかけてきた。
彼女との会話で、わはは、と嘘っぽく豪快に笑って、醜い胸の内を隠した。
千穂、お願い。
もっと、強く誘って。桂花が断れないくらいに。
お願い、桂花を嫌いになりたくない。
桂花を千里先輩の元に行かせたくない。
千里先輩を桂花のモノにしたくない。
そう思って、ハッとした。
私は、何を考えてるんだろう。
桂花はモノじゃない。
千里だって、違う。
桂花は親友だ。入学式にみんなが酷く緊張していて、その中でも明るく笑顔で話しかけてくれた。
その笑顔は今も忘れられない。
桂花も緊張してるはずなのに、怖いくせに、少し潤んだ瞳で、優しく眉を下げて、笑う。
その笑顔は、まさに、千里先輩にそっくりだった。
彼の笑みを思い出して、ああ、と腑に落ちた。
「…てか、桂花委員会じゃないっけ、今日」
気づいたら、そう答えていた。
千里と桂花は一緒なんだ。
最初から、私が割り込めるはずは無かったんだ。
私は、桂花のように、真っ直ぐじゃない。
怖がりで、人任せで、逃げて、逃げて逃げて逃げてばかりだ。
それがバレないように、がさつにサバサバと振る舞う。
大好きな人は、桂花みたいな素敵な人と一緒にいてほしい。
私みたいな、腐りきった人間には、千里先輩を巻き込みたくない。
「そっかそっかまた今度だね〜。」
この恋は終わりにしよう。
恋とは呼べない、濁った執着のようなものは。
「頑張ってこい」
頑張って、桂花。
千里先輩を真っ直ぐに愛してよ。
━━━━━━私とは違うあなたの温かさで。
桂花が出ていったあと、千穂はずっとうずうずとしていて、やっと口を開いた。
「……楓、大丈夫?顔色、悪いよ。」
「大丈夫だよ、ごめんね千穂。今日は私も用事があるんだ。」
そう早口でまくし立てて、カバンやパーカーを持って教室から逃げるように出ていった。
そうでもしないと、取り留めのない思いが溢れそうだったから。
ごめんね、千穂。
ごめんね、桂花。
応援したいから。
応援するから。
今日までは、千里先輩のこと、大好きで居させて。
文化祭当日。
桂花を見ると、なんだか気持ちが落ち込んだ。
赤と白のストライプのアメリカンワンピースを着ていて、胸の長さまである髪を巻き下ろしていた。
可愛いな。
私は、きつい顔をしているから、赤と白は似合わない。
せめて、と思って、青と白のものを選んだ。
だけど、ふりふりのスカートやふわっと膨らんだ袖は、やっぱり似合わない。
千里先輩とは、彼女のように可愛らしい人の方が、合う。
傍から見ても、私の恋は否定されるものでしかないと思う。
「…楓ー!シフト、私に変わったから。」
「おお!桂花となら、ちょっと安心。頑張ろーね。」
半分ほんとで、半分嘘だ。
確かに、桂花は責任感が強いし、頼りがいがある。
だけど、やっぱり彼女に隠し事をしている後ろめたさがあって、少し気まずくもある。
「楓、衣装とっても似合うね。」
桂花は唐突に言った。
お世辞にも可愛いとは言えないのに。
「えぇ、そう?私には少し可愛すぎて、ちょっと浮いてるよ。桂花の方が、よく似合っている。」
「あはは、そんなことない……」
本当のことを言ったのに、彼女は俯きがちに力なく笑った。
そんなことあるって。
私なんかより、桂花が千里先輩とお似合いなんだもん。
何がそんなに不満そうなの。
それ以上嬉しいことってある?
「……きっと、可愛いって言ってくれるよ!桂花の好きな人も!」
「いやいや、ありえないよー。」
ありえなくない。
千里先輩だって、可愛いって、絶対言うよ?
「てか、後夜祭誘った!?」
「まだ、だけど。」
いいの?うだうだしてて。
私が横からかっさらってもいいの?
「もー他の子に先越されたらどうするの!」
「……あ、でも私もう、」
「ん?……あいらっしゃいませー!」
ねえ、なんて言うつもり?
諦めるなんて言わないよね?
私は、桂花と千里先輩が幸せになって欲しかったのに。
桂花が諦めるなんていったら、私が気持ちを押し込めた意味無くなっちゃうじゃん。
桂花の気持ちだし、私が言う立場にはいない。
だけど、じゃあ、私の気持ちはどうなるの?
行き場の失った気持ちが、ぐるぐると渦巻いて、そのまま破裂しそうだった。
暴走する気持ちを、なんとか押し込めて笑っていた。
「…あ、いらっしゃいませー、何名です…って千里先輩?」
桂花のその言葉を聞いて、もう、爆発寸前だった。
見せつけてるの?
人の気も知らないで。
気持ちを隠すのに必死だった。
もう、笑顔も引きっつっている。
「えっと……、楓!これ届けておいて。」
急に名前を呼ばれて、我に返った。
「おっけい、任せて。」
そう言って、商品を受け取ると、それは千里先輩たちのテーブルのものだった。
やだ。
彼と話したくない。
いや、話したかった。
ずっと、もっとちゃんと話したいって。
だけど、気持ちが溢れて、無理やりにでも奪い取りたくなってしまうと思う。
話したくないよ。
「どーぞ。こちら注文した商品でーす。」
にこやかな仮面を張り付けて、彼らのテーブルに商品を置いた。
「どーもどーも。……ねえ、てか、インスタやってる?教えてよ!」
妬み嫉みで溜まったもやもやが、その一言で、決壊したようにイライラが爆発した。
今言うな。てか、言うな。
笑顔で悪態を着いてやろう。
そのヘラヘラした笑顔を、二度と女の子に向けられないくらい、その根性へし折ってやろう。
「えっとー…」
「おい、やめとけって。」
まず何を罵ろうかと笑うと、私の目の前と彼らの間に手のひらが入った。
「ばーか。やめとけ。てか、お前は彼女いるだろ。」
千里先輩がその中の1人の男の子に言うと、彼らは「つまんねーのー。」とけたけたと笑った。
(元々、面白くもなんもないっつーの。)
失礼しまーす、とにこりと笑らって席から離れようとした。
すると、「あ、楓。」と、名前を呼ばれた。
驚いて勢いよく振り向くと、視線がばちっとぶつかった。
ずっと、ずっと、大好きだったあの声だ。
何度、想像したか。
ああ、嬉しい。
嬉しいのに。
嬉しくない。
彼は私の目を見ていたけれど、気持ちは桂花の方ばかりを向いているのが分かった。
そんな目、向けられない方がマシだ。
「なんですか?」
感情を押し殺した笑みを浮かべた。
「……えっと、俺ずっとお礼が言いたくて。ありがとな。」
「なんの事ですか?」
正直、彼の言っている『お礼』っていうのは1ミリも心当たりがない。
なんのことを言っているのか、さっぱりだ。
「ああ、えっとー。」
「なんのことか分からないですけど、全然いいですよ。気にしないでください。」
彼はしどろもどろに困ったような顔をしていた。
ちくりと心が痛くなった。
「…あ、そう言えば、楓。あのさ、後夜祭って、何かあるの?」
これは誘われているのだろうか。
勘違いする。
そんなことなんて絶対ありえないんだから、期待するようなこと言わないでよ。
「何かって言うのは、なんでしょう。」
「なんか、伝説?言い伝え?みたいな?そういうの、あるの?」
ああ、そういうことか。
その彼の様子が、あまりにも間抜けで、ふっと声が出た。
「ありますよ、ジンクス。先輩、情弱ですね。」
「うるせーな。で、なんなんだよ。」
「『後夜祭の花火を見た2人組は幸せになれる』ですよ。」
彼は少し頬を紅潮させて、「へー。」と興味無さそうにそっぽ向いた。
でも、耳は真っ赤になっていた。
その視線の先には、桂花がいた。
彼は、後頭部に手を当てた。
子供っぽいその様子に、思わず吹き出してしまった。
そして、彼の目をしっかりと見て、言った。
「桂花のこと、誘ったらどうですか?」
「っえ!……いや、いやいやなんでだよ。」
思ったよりも慌てていて、さらに笑った。
「誘ったらいいのに。」
「いや!……いや、まあ。考えとくよ。」
考えとくのか。
一瞬そう思ったけれど、でも、彼の桂花を見る目をみたら、なんだか、もやもやとしていた気持ちが一気に晴れた。
「きっと、おっけーって言ってくれますよ!」
「ど、どうかな。」
「あははは!戸惑いすぎ!」
「ばかにしすぎだ。」
「それでは、戻りますね。」そう声をかけて、くるりと振り向くと、「楓!」とまた呼び止められた。
彼の方を見ると、
「楓、ありがとな!」
と、にかっと笑った。
あの時の笑顔と変わらない、大好きな笑顔だ。
それをみて、ああ、私は失恋したんだと、やっとそう思えた。
彼が、この笑顔を向けるのは桂花しか、いないんだ。
暗くなるはずの気持ちは、雲が晴れていくようにすっきりとしていた。
納得しているような、腑に落ちているような。
桂花、頑張りなよ。
千里先輩、頑張ってよ。
2人だったら、絶対に幸せになれるから。
ごめんね、上手くいかないことを望んでいて。
ごめんね、先輩を私のモノだって思っていて。
ごめんね、邪魔ばっかりして。
千里先輩、ありがとう。
千里先輩だから、貴方だから、好きになりました。
飛び出した桂花を追って、飛び出していく彼の背中を見ながら、そう思っていた。
