カラオケだけが楽しみだった私が、仕事にも恋にも本気になるまで

 週明けの午後、美織は会議室の隅にノートパソコンを開いていた。
 自分から発案して、自分の言葉でまとめる。そんな経験はこれまでになかった。

 ――企画書って、どうやって書けばいいの?

 ネットで「企画書 書き方 テンプレート」と検索して、いくつかのフォーマットを開いてみる。
 けれど、それをそのまま埋めるだけじゃ、何か違う気がした。

 『マーケティングは“売る”ための仕組み。総務は“働く”ための仕組み』
 ――あの言葉が、また浮かぶ。

 そうだ。これは“仕組み”の提案。
 ただ「無駄が多いから変えましょう」じゃなくて、なぜ必要なのか、どうすれば効果的なのか、誰のためなのかを、自分の視点で考えなくちゃ。

 そこから、美織の手は少しずつ動き始める。

 現状の問題点――未回収BOXに放置された印刷物の量。
 リスク――紙の無駄、情報漏洩の可能性。
 解決策――オンデマンド印刷システムの導入と、ICカード認証による管理。
 期待される効果――紙使用量の削減、社員の意識改革、セキュリティ強化。

 ――少しずつ、言葉になっていく。

 途中、手が止まりそうになるたびに、美織は深く息をつき、視線を画面に戻した。
 企画書に必要な“完成度”がどこまでなのか、正直わからない。けれど、自分なりに考えて、調べて、形にすること。それが今、美織にできる精一杯だった。

   ◇◇

 翌日の朝、美織は印刷した企画書をクリアファイルに入れ、デスクの上で深呼吸した。
 心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。けれど、引き返す気はなかった。

「課長、お時間よろしいでしょうか」
「うん? ああ、高村さん。どうした?」

 田村が眉を上げる。美織は、少し緊張した声で口を開いた。

「先日お話しした、オンデマンド印刷の件、企画書にまとめてみました。もしよろしければ、一度ご覧いただけないでしょうか」

「おお……ああ、ありがとう。じゃあ、ちょっと見せてもらおうかな」

 田村は企画書を手に取り、めくりながら目を通していく。
 美織は固唾を呑んで、その様子を見守った。

 ページを捲るたびに、課長の表情が微妙に変わっていく。

「……ふむ。放置印刷の実態、そこまで数が多いのか」
「コストの試算も、ちゃんと入ってるんだな……」
「リスクと対策、それから社員の意識面にも触れてるのか……」

 ふと、田村が顔を上げる。

「……思ったより、ちゃんとした企画書になってるじゃないか」

 美織は、思わず小さく息を吐いた。

「ありがとうございます。まだ不備があるかもしれませんが、できるだけ調べて、自分なりにまとめました」

「いや、これはなかなか……うーん……でも、導入には上の判断がいるな」

 そのとき――

「私が読みましょうか?」

 部長の木崎が、背後から声をかけた。
 ふたりが驚いて振り返ると、部長は穏やかに笑っていた。

「先日の提案、気になってたんですよ。ちょうどいい機会なので、見せてもらえますか」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 美織が差し出すと、部長は企画書を手に取り、その場でさっと目を通しはじめる。
 数分の沈黙のあと、木崎は口を開いた。

「……よく考えられてますね。社員の動線と心理、費用対効果、どれも的確に押さえられている。初めてとは思えない」

「ありがとうございます……!」

「じゃあ、これをもとに簡単な導入スケジュール案を作ってみましょうか。私の方でも経営会議にかける準備をしておきます」

 田村が、ややバツが悪そうに咳払いする。

「……じゃあ、高村さん。時間のあるときでいいから、部長とすり合わせてスケジュール案、作ってみてくれる?」

「はい。わかりました」

 デスクに戻った美織は、ファイルを抱えながら、静かに笑みを浮かべた。

 ――私の言葉が、会社の中を少しだけ動かした。
 ほんのわずかだけど、それは確かに、自信になっていた。