カラオケだけが楽しみだった私が、仕事にも恋にも本気になるまで

 平日の夜八時。
 駅近くのカラオケビルの個室に、美織と響生は並んで座っていた。

 グランプリ大会まで、あと十日。
 週末の練習だけでは足りないと感じたふたりは、今週だけ平日の夜にも集まることにしていた。

 仕事帰りの足でそのまま来たため、美織の肩には自然と疲れがにじんでいた。
 ワイシャツの袖を少しまくりながら、深く息をつく。

「大丈夫ですか?」

 響生が水のペットボトルを差し出してくる。

「ありがとうございます。……ちょっと、バタバタしてて」

「新しい取り組み、ですか?」

「はい。慣れないことが続いてて、まだ余裕がなくて」

 苦笑交じりに答えると、響生はゆっくりと頷いた。

「でも、それだけ真剣に向き合ってるってことですよね」

「……分かりますか?」

 ふと、自然に口から出た言葉。
 自分でも驚くくらい素直だった。

「ええ。言葉にしなくても分かりますよ。高村さんって、まっすぐですから」

 ――まっすぐ。
 そう言われると、なぜか胸が少しだけ熱くなった。

「じゃあ……軽く一回、合わせてみませんか? 今日は、後半のパートだけで」

「はい。……お願いします」

 響生がリモコンを操作し、譜面を確認する。
 イントロが流れ始めると、不思議と疲れはすっと意識の外に消えていった。

 二人の声が重なる。
 目を合わせるタイミング、息をそろえるリズム、微妙な強弱。
 ひとつひとつを大切に重ねていく。

 歌い終えたとき、美織は自然と微笑んでいた。

「……今の、すごくよかったですね」

「はい。気持ちが合ってきてる感じがします」

「もう一回だけ、いいですか?」

「もちろん」

 夜の静けさの中、ふたりの練習は、いつしか言葉を超えて響き合っていた。

   ◇◇

 練習を終えて、ビルを出ると、夜風がひやりと肌をなでた。
 まだ春の手前。コートの襟を立てながら、美織と響生は並んで駅へと歩く。

 周囲はすっかり静まり返り、時折聞こえるのは信号の音と、遠くを走る電車の気配だけ。
 さっきまでの歌声の余韻が、まだ体の中に残っている気がした。

「……今日は、来てよかったです」
 美織がぽつりと言う。

「はい。僕もそう思いました」

「仕事で、頭がごちゃごちゃしてたんですけど……歌ってると、スッと整理されてくる感じで」

「……わかります」
 響生が少し笑う。

「音って、余計な雑音を消してくれますよね。外じゃなくて、中の」

 “中の雑音”――その言葉に、美織は思わず足を止めかけた。
 けれど、響生は歩調を崩すことなく、前を見たまま続ける。

「僕も、やっぱり不安になること、ありますよ」

「……青海さんでも?」

「うん。表には出さないようにしてるだけで、ね」
 少し照れたように笑うその横顔が、夜の街灯に柔らかく照らされていた。

 美織は、その姿をそっと目に焼きつける。

「……私、あの記事を見て、ちょっとびっくりしました」

「記事?」

「『エッセンティア、若手部長の挑戦』って」

「ああ……見ちゃいましたか」

「はい。でも、青海さんが部長だって知っても、今日の青海さんは、やっぱり……“いつもの青海さん”でした」

「それ、どういう意味ですか?」

「んー……えっと……」
 美織は言葉に詰まり、思わず笑った。

「たぶん、いい意味です」

 ふたりの間に、小さな笑いが生まれた。
 それは、これまでのどの練習よりも自然なハーモニーのように響いた。

「次の練習、また連絡しますね」

「はい。……楽しみにしてます」

 電車が来る音が、ホームに響く。
 ふたりはそれぞれ反対方向のホームへと向かいながら、ほんの少しだけ、振り返って目を合わせた。

 言葉は交わさなかった。
 でも、確かに何かが通じていた。