「さて、片付けしなきゃな」
フローリングだけが剥き出しの状態のままの部屋には、段ボール箱がいくつも積まれている。正直、引っ越してドッと疲れているものの、片付けを少しでも終わらせないと暮らせない。
私、二見和香(ふたみわか)は息を吐きながら窓を開ける。ずっと見慣れていた山や田んぼはなくて、目の前には大きなビルやお店ばかり。人の足音や車の音がどこか地元より大きく感じる。
私は今日、地元の隣県から進学のために名古屋へ引っ越してきた。名古屋は、山と田んぼに囲まれて育った私から見れば全くの別世界の街に見えた。賑やかで華やかだけど、人も時間もどこか忙しなく動いている。
(まあ、こんなに忙しかったら地元のことなんてあっという間に忘れるよね)
隣の県の街とは思えないほど、名古屋は活気で溢れている。その音を聞きながら、私は段ボールを開け、まずは食器類を棚に片付けていくことにした。
(あっ……)
段ボールの中に、卒業アルバムが入っていることに気付く。実家に置いてきたつもりだったが、間違えて段ボールに入れてしまっていたみたいだ。深い青の表紙をなぞると、頭の中にあいつの笑った顔が浮かびそうになって、慌てて頭を振る。
「やめてよ!思い出さないで!名古屋に来た意味ないじゃん……」
胸がズキズキと痛い。喉が誰かに絞められているかのように苦しい。片付けの手が止まる。今すぐにでも、このアルバムを捨ててしまいたくなった。その時だった。
ピンポーン
玄関のチャイムが音を立てる。さっき大声を出してしまったから苦情を言いに来たんじゃないか。引っ越し初日からトラブルなんて、と思いながら顔が真っ青になっていく。すると、なかなか出てこない私に痺れを切らしたのか、もう一度チャイムが鳴った。
「は、はい!すぐ行きます!」
ビクビクしながら玄関へと向かう。チェーンと鍵を外してドアを開けると、そこにはよく知った顔があった。ーーー今、世界で一番見たくない顔があった。
「よっ。引っ越しの片付け、手伝いに来た」
そう言って笑った男の名前は梶原司(かじわらつかさ)。二月に私が失恋した相手である。
司との出会いは、中学校の部活だった。私は料理やお菓子作りが好きだったので、中学校に入ったら調理場に入ると決めていた。家庭科室の中にわくわくしながら入ると、女子生徒しかいない中に男子生徒が一人ポツンと座っていた。それが司だった。
女子が大勢の中で男子一人はかなり浮いている。みんなヒソヒソと何かを話していた。私は迷うことなく司の隣に座った。ヒソヒソと何かを言っているのは嫌いだから。
「……あっ!よ、よろしくね……。僕、男だし調理部で浮いてるよね……。料理、好きなんだけど……」
司はオドオドしながら小さい声で言った。私はその態度にイラッとしてしまい、「堂々としなよ!」と司の背中を叩く。バシッという音が家庭科室に響いた。
「料理やお菓子作りが好きでここに入ったんでしょ。好きなものは好きでいいじゃない。何を俯く必要があるのよ」
「う、うん……。そうだね」
その日から、司とは「友達」になった。司は最初の頃はオドオドして内気だったけど、慣れると饒舌だった。特に料理やお菓子に関する歴史や知識が半端なく、私も知らないことばかり聞かされた。
「和香、知ってる?肉じゃがはビーフシチューを作ろうとして失敗してできた料理なんだよ!」
「そうなの?肉じゃがとビーフシチューって同じ煮込み料理だけど、全く味とか別物じゃん」
「イギリスに留学した男性が日本に帰国した際、イギリスで食べたビーフシチューを作ってほしいと調理員に頼んだんだ。でもその人はビーフシチューという食べ物を全く知らなくて、試行錯誤を繰り返した結果、肉じゃがが誕生したんだ!」
「へぇ〜。じゃあ、ビーフシチューがなかったら肉じゃがは生まれなかったってことね」
「うんうん!他にも失敗から生まれた食べ物って多いんだよ〜。タルト・タタンやアイス・キャンディも失敗から生まれたんだ」
「どれも今、世界中で愛されてる食べ物じゃない」
料理やお菓子の話をする時、司の目は夜空に浮かぶ星のように煌めいていた。大きく身振り手振りで楽しそうに話す司に、いつの間にか好きになっていた。
司とは、どの女子よりも会話をしている自信があった。司と仲のいい女子は私しかいないと思っていた。
司と話すたびに好きという気持ちが大きくなって、司から手作りのお菓子をプレゼントされるたびに舞い上がっていた。でも告白する勇気なんてずっと持てなかった。勇気が出たのは高校三年生の時だ。
「えっ!司、進学しないの!?」
「うん。地元で就職するよ。料理とかお菓子はあくまで趣味で、仕事にしたいとは思えなくて」
司は県外に進学せず、地元企業に就職してしまった。高校を卒業したら離れてしまう。だからその前に告白しようと決心した。
(勝負はバレンタイン……!)
今まで司とは友チョコの感覚でお互い手作りチョコレート菓子を交換していた。でも、今年は本命チョコを作って告白しよう。そう思ったんだ。
「材料買いに行かないとね」
二月の平日の昼間、私はバレンタインのチョコを作るために買い物に出掛ける。三年生は二月から自宅学習で学校へ行かなくていい。だから、今までより立派なチョコを用意できると思っていた。
「えっ……」
スーパーへ入ろうとした私の足が止まる。少し前を司が歩いていた。その隣には、白いコートを着た可愛らしい女の子が歩いている。学校で見たことのない女の子だ。
(何よあいつ……。他校に彼女いるんじゃん……)
目の前がぼやけた。ツンと鼻の奥が痛くなっていく。私は何も買わず、スーパーの前から逃げ出した。
『和香!バレンタインのチョコ、できたから渡しに行ってもいい?』
そんなLINEが夜に届いたものの、私は返信することができなかった。彼女がいるのに他の女にもチョコ渡すのかよ、と苛立ってしまう。
「あの最低女たらし野郎!!」
泣きながらそう大声を上げ、部屋のゴミ箱に告白しようと決意した日から書いていたラブレターを捨てる。チョコレートと一緒に渡すはずだったこの手紙は、もう何の意味もない。
「お姉ちゃん、急に大声出してどうしたの?」
部屋のドアが開いて妹の胡桃(くるみ)が入ってくる。胡桃はゴミ箱のラブレターを見て、顔を一気に顰めた。
「そのラブレター、お姉ちゃんが一文字ずつ丁寧に書いてたやつじゃなかったっけ?捨てていいものなの?」
「うるさい!!もうこんなもの意味ないの!!」
呆れたように言う胡桃を怒鳴り付け、私はベッドの布団を頭から被る。涙が溢れて止まらない。
失恋したその日から、私は司と関わるのをやめた。司からの連絡は取らず、卒業式も話しかけようとしてきたが無視した。
しかし今、司が目の前に立っている。
「な、何で司が名古屋にいるの?」
「今日が引っ越しだって妹さんが教えてくれたんだ。片付け、一緒に手伝うよ」
司はそう言い、部屋に入ろうとする。私は慌てて「待って!」と司の胸元を押した。
「一人で片付けなんてできるから、あんたはさっさとぴよりんでも買って帰りなさいよ!」