花の都とも呼ばれているイタリアのフィレンツェは人気の観光地の一つである。ルネサンス時代の数多くの建築に観光客は足を止め、写真を撮ったり笑顔を浮かべている。

そんな観光客の横を一人の男性が通り過ぎた。周りの美しい建造物には目もくれず、ただ黙々と目的地を目指す。彼の胸元にはロケットペンダントが揺れていた。

フィレンツェにある教会の前で男性は足を止める。ここが彼の目的地だ。

「……エミリー、君と約束した場所についたよ」

男性はペンダントに向かって話しかける。風が吹き、ペンダントが微かに揺れた。

これは、とある男女の小さな恋の物語である。



物語の始まりは数年前に遡る。舞台はシカゴ。

高校生のリオン・ワトキンズは、授業が終わった後、ゆっくりとした足取りで住宅街を歩く。高校から家までの距離はそれほど遠くなく、すぐにリオンは自宅に辿り着いた。

赤い屋根が特徴的な家のドアノブに触れ、リオンは深いため息を吐く。そして家の中には入らず、踵を返して再び歩き出した。
「ハァ……」

リオンの口からまたため息が出る。同じ高校のクラスメートたちは、「授業だりぃ。家に帰ってゲームしたい」と友達同士で話しているものの、リオンは真逆だった。家に帰りたくない。その気持ちだけがリオンの心の中に渦巻く。

「どこ行こうかな……」

この街に来てから、いつもリオンは学校が終わると暗くなるまで外にいる。ファストフード店を利用することが多いのだが、今月はお小遣いがもうなくなりそうだ。

(あの二人にお小遣いを頼むのは嫌だ!)

無料で利用できる施設をリオンは探す。しばらくして図書館を発見した。大きな煉瓦作りの建物にリオンは足を止める。

リオンは本を読まない。幼い頃、母親から絵本の読み聞かせをしてもらった時にしか読んだ記憶がない。しかし図書館は無料で使用できる。

「仕方ない。ここで過ごすか」

リオンは図書館の中へと入る。一歩中へ足を踏み入れてすぐに大きな本棚と大量の本に出迎えられた。最近入荷されたばかりの小説のようだ。

(……とりあえず絵本コーナーに行くか)
絵本ならば幼い頃に読んだものがあるだろう。そう思いながら絵本コーナーへと足を進める。図書館の中には、平日のためかほとんど人がいない。

刹那、図書館の窓際の椅子に座る人を見かけてリオンの足が止まる。リオンとそれほど歳が変わらないであろう女性がいた。

女性は大きめの白いフード付きの服とチェック柄のスカートを履き、その頭には帽子をすっぽりと被っている。分厚い小説を熱心に読んでいるその姿に、何故かリオンは目が離せなくなった。

(綺麗な子だな……)

初対面で名前を知らない女性に、リオンは何故かそう思ってしまった。

それから数日。リオンは学校が終わると図書館へ行くようになった。図書館に行くと、いつも窓際の席にあの女性がいる。いつも大きめの服を着て、青い瞳を煌めかせながら小説を読んでいる。

(いつも図書館にいる。学校は行ってるのかな?)

見かけるたびにリオンの中で女性の存在が大きくなる。そして土曜日。朝から図書館に行ったリオンは、勇気を出して声をかけてみることにした。
「あの、いつもここで本読んでますよね」

そう話しかけると、女性は本から顔を上げた。そしてリオンを見て少し驚いた表情を見せる。淡いピンクの唇がゆっくりと動いた。

「あなたも、ここ数日毎日来ていますよね」

ドキリとリオンの心臓が跳ねる。リオンが女性を見ていたように、彼女もまたリオンのことを見ていたのだ。

「俺、リオン・ワトキンズって言います。歳は十五歳。君は?」

「……私は、エミリー・テイラー。リオンと同じ十五歳」

エミリーが微笑む。笑った顔を見るのは初めてだった。リオンの胸が高鳴る。誰かの笑顔を見て、これほど綺麗だと思ったことがなかった。

リオンはエミリーの隣に座り、司書に見つからないように小さな声で話す。まるで長年会っていなかった友達のように、二人の会話は弾んだ。



リオンは学校が終わると図書館へ行くようになった。図書館に行けばいつもエミリーがいる。同じ窓際の席で、分厚い小説を熱心に読んでいる。

「エミリー」

名前を呼んで彼女の隣に座る。エミリーは本から顔を上げ、リオンの方を見て微笑んだ。

「リオン。学校、お疲れ様」

「今日は数学の小テストがあったんだ〜。数学苦手だけど、エミリーが公式教えてくれたおかげでなんとかなったかも」

「人に教えるの初めてだったからあんまり自信なかったけど、そう言ってもらえると嬉しい」
エミリーは勉強が得意だ。リオンにわかりやすく教えてくれる。そんな彼女はどこの高校に通っているのか気になりリオンは訊ねたことがあったものの、はぐらかされてしまった。

「エミリーって頭いいし、絶対通ってる学校って××高校だろ?あそこ頭いい奴しか通えないし」

「……私、そこまで頭よくないよ。ちょっと勉強できるだけ」

エミリーは少し寂しそうな顔をする。彼女は今日も頭に帽子を被り、大きめの服を着ていた。リオンは何かまずいことを言ってしまったのかと焦る。するとエミリーが訊ねた。

「リオンっていつも図書館に来るけど、学校のお友達や家族とどこかへ行ったりしないの?」

エミリーの何気ない言葉にリオンの胸が締め付けられる。それは彼が一番触れられたくないことだった。しかしすぐに思った。

(俺もエミリーを傷付けたんだから、等しく傷付くべきだよな)

リオンはどう話そうかと少し考えた後、口を開いた。

「あのさ、ちょっと長くなるんだけど……」

リオンがシカゴに来たのは高校生になる少し前のことが。それまでリオンが暮らしていたのは、シカゴではなくミネソタだった。

ミネソタでは母親と二人で暮らしていた。父親はリオンが物心つく前に事故で亡くなっていたからだ。生活はそれほど裕福ではなかったものの、リオンは毎日が幸せだった。
「母さんとスケートしたり、友達とアイスホッケーのチームに入ったり、毎日楽しかった。でもある時、母さんが知らないおじさんを家に連れて来たんだ」

母親は家に連れて来た男性と結婚するのだと話した。リオンにもお父さんができると嬉しそうに母親は言っていたものの、リオンの心は複雑だった。今まで父親という存在を知らないリオンにとって、いきなり現れた男性を「お父さん」とは呼べなかった。

しかし、幸せそうに笑う母親にリオンは何も言うことができなかった。表面上は笑みを浮かべて二人が結ばれることを祝福したものの、心の中にはいつも重いものがあった。

母親が男性と結婚してすぐ、男性がシカゴに転勤することが決まった。そしてリオンも住み慣れたミネソタからシカゴへやって来たのだ。

「おじさんはすごく優しいんだ。俺のこと気にかけてくれてる。仕事忙しいのに母さんのために料理作ったりしてさ。……でも、家族ってどうしても思えないんだ」

シカゴの高校も、街並みも、新しい家も、リオンは全て夢で見た景色であってほしいと思ってしまう。気が付けば拳を握り締めていた。大きな手に小さな手が重なる。