怪盗が最後に盗んだもの

世界の西にある大陸にその国はあった。ジュニパー国。三つの大国に囲まれる小さな国である。しかし、多くの大国はこの国に手を出そうとはしない。何故なら、この国は魔法の国だからだ。

ジュニパー国の民は、はるか昔から魔法を使うことができた。他国の人間にはできないことだ。そのため、他国から支配されることなく穏やかな歴史が続いている。

誰もが魔法を使えることが当たり前であるジュニパー国だが、一人の十八歳の少女は例外だった。

午前零時。誰もが寝静まっている。大きな屋敷が立ち並ぶ通り通りに一人の男の姿があった。闇に溶けてしまうような黒いシルクハットと黒いタキシード、そして黒いマントを羽織り、目元には仮面をつけている。男の目はある屋敷の屋根裏部屋にあった。

白い月明かりが照らす屋根裏部屋には、ツギハギだらけのワンピースを着た少女が啜り泣いている。ワンピースは元々は真っ白だったのだろう。しかし、今では黄ばみや様々な汚れが染み付いていた。

「うっ……ううっ……。どうして私なんか生まれちゃったんだろう……。もう消えちゃいたい!」
男は拳を握り締める。今、彼の胸の奥にあるのは怒りだ。何故彼女がこのような仕打ちを受けなければならないのか。彼女は何一つ悪いことなどしていない。男は声を荒げたくなるのを堪え、深呼吸を繰り返した。

男はマントを翻す。すると、彼の姿は屋敷の外から一瞬で屋根裏部屋に移動した。突然現れた男の姿に少女は驚き、泣くのを止める。しかし紫色の瞳は真っ赤に腫れ上がり、頰には涙が伝っている。

「こんばんは。美しいお嬢さん」

男は少女の目の前でお辞儀をした後、彼女の頰に伝う涙をそっと拭った。男は少女の体を見る。ワンピースから出た手足にはアザや傷が目立っていた。

「……私、綺麗なんかじゃないですよ」

少女は力無く笑う。男は怒りが顔に出ないように心がけ、少女の両手をそっと包んだ。少女の手は酷く荒れている。

「お嬢さん、私のことはご存知ですか?」

「はい」

少女が頷くと、男は彼女を安心させるように笑いかけた。その唇がゆっくりと動く。
「世界で一番綺麗なあなたを、私が盗んでもよろしいでしょうか?」

少女は両手で口元を覆う。腫れてしまったその目は大きく見開かれ、体が小刻みに震えていく。

「……この家から、逃げてもいいんですか?」

その目からまた涙が溢れ出す。月の光を浴びて煌めくその雫は、どんな宝石よりも美しくその男には見えた。

「あなたはずっと孤独だった。独りで人一倍頑張り、戦ってきた。もう自由になっていいんです。幸せを掴んでいいんです」

少女の口から嗚咽が漏れる。男は少女を抱き締めた。折れてしまいそうなほど少女の体は軽い。

「私に攫われてくれますか?」

「……はい」

男の問いに、少女は泣きながら消えてしまいそうな声で答える。男は少女の艶のないミルクティーブラウンの髪を撫でた。
午後零時。カフェのテラス席にて、一人の女が食事を摂っていた。ショートカットの黒髪に顔にあるそばかすが特徴的な彼女は、黒のシンプルなワンピースを着ている。女の名前はジョディ・ハドソン。魔法警察に所属する刑事である。

目の前に並んだ料理はおいしいのだが、ジョディの表情は食事を楽しんでいるように見えなかった。唇をキュッと結び、どこか緊張した様子である。

「ハァ……」

ジョディがため息を吐いたその時だった。目の前に一匹の猫が現れる。猫は光の粒を体に纏っていた。猫が口を開く。

『スプリング通りで事件が発生。オルコット邸に怪盗シャハルから犯行予告状が届いた。捜査員は支給現場に急行せよ!』

猫はそれだけを言うと消えてしまう。ジョディは「怪盗シャハル……」と呟きながら立ち上がった。怪盗シャハルはジョディが追い続けている宿敵のような存在である。

怪盗シャハルは、黒いシルクハットやマントが特徴的で、各国の貴重な宝石や美術品を盗み出している。どんな厳重な警備や魔法も容易く潜り抜け、いつも煙のように消えてしまうのだ。

「今日で全てを終わらせる!」
ジョディはそう呟き、スプリング通りに向かった。



スプリング通りは、ジュニパー国の富裕層が暮らしているところである。右を見ても左を見ても大きな屋敷が立ち並んでいる。その中の一つがオルコット伯爵の屋敷だ。

オルコット伯爵の屋敷の前では、多くの捜査員がすでに出入りしていた。全員ジョディの部下である。ジョディが「すまない。少し遅れた」と声をかけると、部下たちは少し驚いた様子だった。

「あれ?ハドソン刑事、歩いて来られたんですか?」

「瞬間移動魔法使わなかったんですか?」

「最近運動不足だったから歩いてみただけだ」

ジョディはそう言い、屋敷の中へと入る。屋敷の中にも大勢の警察官が警戒した様子で見回っていた。ジョディは迷うことなく家族が集まっている大広間へと向かう。

「失礼致します。刑事のジョディ・ハドソンです」

「おお、これはこれは刑事さん……。アーサー・オルコットです」

革張りのソファから高価なスーツを着た中年男性が立ち上がる。アーサー・オルコット伯爵だ。アーサーの隣には夫人であるエリザベスがおり、二人の前には十六歳の娘であるレジーナが座っている。エリザベスもレジーナも美しいドレスと宝石で着飾っていた。
「怪盗シャハルから犯行予告状が届いたそうですね」

「ええ。これです」

アーサーが一枚の便箋を差し出す。ジョディは便箋を受け取り、目を通した。真っ先に飛び込んできたのは怪盗シャハルのマークである烏のイラストである。便箋にはこう書かれていた。

『親愛なるオルコット伯爵。今日の夕刻、あなたの屋敷に隠された世界一美しいお嬢様を攫いに伺います。私はこの宝を最後に怪盗をやめます」

何度も怪盗シャハルと対峙してきたジョディは、この便箋が悪戯ではなく本物の予告状だとわかった。予告状から顔を上げ、「この予告状は間違いなく本物です」と告げる。

「何ということだ……」

「私の可愛いレジーナが狙われているというの!?」

アーサーとエリザベスは顔を真っ青にしている。しかし、狙われているという当のレジーナ本人は恐れてはいないようだ。むしろ恍惚の表情である。

「まさか、怪盗シャハル様が私を攫おうとしているなんて……!」

怪盗シャハルは素顔ははっきりと見えないものの、その紳士的な振る舞いから女性ファンも多い。レジーナもその一人なのだろう。ジョディはため息を吐きたくなるのを堪え、部屋の中を見回した。
ジョディの一年分の給料を支払っても手に入らないような高い調度品がこの部屋にはたくさんある。莫大な地と富と地位を持つ伯爵、気品に満ちた夫人、美しい娘、この部屋には全て揃っているように見える。

(一人足りない……)

ジョディは拳を握り締める。そして、辺りをわざとらしく見回しながらアーサーたちに問いかける。

「伯爵、夫人、この家にはもう一人娘さんがいらっしゃいますよね。レジーナ様より二歳年上のフローレンス様が」

その名前を出した瞬間、大広間の空気が凍り付いた。アーサーが拳を震わせながら、「あんな出来損ないに「様」などつける必要はない!!」と怒りを滲ませる。ジョディの眉がぴくりと動いた。

「そうよ!あんな小汚い娘が怪盗に狙われるわけがないわ!」

「あんなのが姉なんて信じられないわ〜。ねぇお母様、あの女って橋の下で拾ってきたんでしょ?」

口々にアーサーたちは長女であるフローレンスを罵る。フローレンスは魔法が使えることが当たり前であるジュニパー国で魔法が使えない存在である。何故ジュニパー国の人間である彼女が魔法を使えないのか、研究はされているらしいが原因は未だにわかっていない。
フローレンスは伯爵家の娘だが、屋敷の外に出ることは禁じられている。十八歳になってもデビュタントを迎えることもなく、彼女の容姿すらこの屋敷にいる人間以外は知らない。

ジョディは大きく咳払いをした後、「フローレンス様をここに呼んでください」とアーサーに言う。アーサーたちは口々に抗議の声を上げたものの、ジョディはそれを遮るよう大声を上げた。

「この予告状には、どちらのお嬢様を攫うのか書かれていません!!なのでフローレンス様にも警護をつける必要があります!!従っていただけないのでしたら、私たちは捜査を放棄させていただきます!!」

「……あれをここに連れて来い」

レジーナの警護がなくなるのはまずいと判断したのだろう。アーサーは舌打ちをしつつ、近くにいた使用人に命じた。無表情な使用人は軽く頭を下げ、大広間から出て行く。ジョディがフローレンスを目にしたのは、それから数分後のことだった。

フローレンスは、ミルクティーブラウンの長い髪に紫の瞳の少女だった。レジーナとも似ている。しかしその髪は伸び放題で艶がなく、体もレジーナに比べるとかなり痩せている。おまけに着ている衣服は美しいドレスではなく、使い古されたであろう使用人の服だった。