仕事の出来る悪役令嬢、薄幸王子様を幸せにアップグレードしておきました。

 今日も今日とて彼の元へ向かえば、ウィリアムは私がスカートの裾に隠して何冊も持ち込んだ本を、お気に入りのソファへと腰掛けて読んでいた。

 こうして実在の人物として目の当たりにするとわかりやすいけれど、ウィリアムは非常に頭が良い。

 彼の抱える事情も事情なので教育はほとんど受けられていないはずなのに、私が軽く基本を教えれば、易々と応用まで幾通りか思いついてしまう。

 頭が良すぎる上に、記憶力だって、良すぎている。教えているはずの私の覚え間違いや記憶違いを、あの時はこう言っていたと指摘されることだってある。

 この短期間に、貴族学院を卒業出来るほどの学力は身につけてしまっていた。流石は、小説の中でのヒーローというものである。

 主人公チートとは、かくあるものかと思ったり。

「お前。姉上には……この状況を、どう説明するんだよ。大丈夫なのか」

 これまでウィリアムに対し散々『この私には、エレイン様が後ろ盾に付いている』とモニカが毒づいていたせいか、エレインの意向に逆らったように見える私の立場を心配してくれているようだ。

 なんて、優しいの。

 そんな酷いことをした張本人であるモニカの身体で思い出してしまうのも悲しいけれど、名前付きでSNSで書き込めば即時開示請求が裁判所を通るような暴言を、いくつも目の前で吐かれていたというのに。

 ウィリアムは、人としての器が大きいのよ……誰にだって、出来ることではないわ。

「良いんです。エレイン様は、弟のウィリアム様をいつも心配しているので……実は私がここに来ていたのも、お姉様からの意向ですよ。意地悪されるとはわかっていても、貴方が何か困っていないか、ご飯は食べているか……どうしているのかを、少しでも知りたかったのです」

 これは小説の後半で明かされる事実なのだけど、姉エレインは政治的な問題で幽閉されてしまった腹違いの弟を心配して、それとなく便宜を図っていたのだ。

 使用人の中にも、彼女の息の掛かった者も居る。けれど、他の人の手前、私のようにウィリアムとは話せないけれど、何か困ったことがあれば、さりげなく助けているはずだ。

 ……けれど、悪役令嬢だったモニカは、エレインの本当の意図など知るよしもなかった。

 エレインは意地悪い性格で短絡的な思考をする弟の婚約者モニカを、信用ならないと疑い、それでもモニカを使って弟のために何が出来るかと試行錯誤していたのだ。

 ウィリアムがそんな優しい姉の思いを知ったその時には、エレインは暗殺されて故人になっている。彼は『お礼も言えなかった』と、悲しみに打ちひしがれ涙を流すしかなかった。

 もちろん。私のここ最近の頑張りから身ぎれいになって、すっかり可愛くなったウィリアムに、そんな重い悲しみを与える訳にはいかないので、エレインの死については私が事前に回避しておこうと思っている。

 ……というか、ウィリアムに関する悲劇はすべて。

「はっ……姉上が……? そのようなことがあるはずがないだろう。俺は嫌われている……姉上の立場を思えば、それは無理もない話だ。あの人を恨んではいない」

 まさか。ウィリアムを嫌っているなんて、そんな訳がない。エレインも可哀想なウィリアムになんとか優しくしてあげたかったけど、彼も知っての通り彼女の状況がそれを許さなかった。

「いいえ。あの方にも……母上王妃様と弟君ジョセフ様への建前があるのです。ですから、私がここに頻繁に来ていても、エレイン様より何も言われていません……私が好意的に接するようになってから、ウィリアム様の様子を尋ねられることだってあります。どうでも良い弟に対し、そのようなことをするでしょうか」

「……姉上は俺を本当に、嫌っていないのか?」

 ついこの前には真っ黒でハイライトも見えなかったウィリアムの瞳には、その時には純粋な驚きの光があった。

「あの方が嫌ったりするはずがありません。ウィリアム様の待遇が少しでも改善されるようにと、動いてくれています。エレイン様はいつもウィリアム様を心配されていますよ」

「……そうか」

 考え込んでしまったウィリアムも、今では憂い顔が減って拗ねたり笑ったり怒ったりと、表情がくるくると変わる。年齢相応の男の子に戻った彼を見ていると、私だって嬉しくなる。

 必要ない不幸にならなくて良いのなら、ならないで良いと思う。

 けど、不幸な王子様ウィリアムを物語開始前に幸せにするという、私の役目は……そろそろ、終わりに近いのかもしれない。
 私はウィリアムの宮から出て、城の廊下を歩いていた。

 ちょうどそこに目の前に居た女官が脚立に乗ろうとして、体勢を見事に崩し『ピャンッ!』という、どう表現して良いか迷う不思議な叫びを発し、見事に転んでしまっていた。

 あら。何かしら。

 ……何だかあの叫びに既視感があるように思えたけれど、ここは転生した小説の世界。

 きっと、気のせいよね。

 ドレスの裾を持って慌てて駆けつけると、転倒してしまっていたふわふわピンク髪の可愛らしい女の子は、頬を赤く染めて恥ずかしそうにしていた。

「もっ……! 申し訳ございません。え! ……モニカ・ラザルス様……!? いやだ。うそ!! すすす、すみません! どうか、何でもしますから!! 私を辞めさせないでください!」

 ……あら?

 この子は、もしかして悲劇の王子様ウィリアムを救う、ヒロインキャンディスではないかしら?

 絶対メインキャラ確定の可愛らしい容姿に、ドジな行動と素直な反応。今はきっと城の女官として入ったばかりで、新人女官として慣れている最中なのね。

 キャンディスが仕事に慣れて立派な女官になった頃に、彼の宮へと侵入してウィリアムと出会うはずだから……そっか……主役二人が出会うのは、もうすぐなのね。

「どうか……落ち着いてください。うっかりしていて足を踏み外してしまうこと自体は、誰にでも起こりうることです。これから先、どうすれば失敗を減らせるかという回避策を、私と一緒に考えてみましょう」

 私は失敗して大混乱した新人に良く使っていた言葉を、ついついここで口に出してしまったけれど、キャンディスは目に見えて変な表情になり震えた声で言った。

「あの……ごめんなさい。とても、変なこと聞きますけど。もしかして……山下さんですか?」

 キャンディスが恐る恐る口にした名前を聞いて、私はその時、驚き過ぎて息が止まりそうになった。

 なんですって……山下さん。前世での私の名前。現代日本で使われる名前。この異世界では、絶対に聞くことがないはずの名前。

 もしかして……キャンディスも転生者で、前世の知り合いだということ?

「え? あの……そうです。確かに私が山下ですが、貴女は誰なんですか!?」

 私は戸惑いつつ発した質問に、彼女は表情を明るくして微笑んだ。

「嬉しい! 一緒に転生していたんですね! 私、竹本です! 山下さん。お久しぶりです!」

 満面の笑みを浮かべて微笑んだキャンディスの中に居る竹本さんは、私が直接OJTを担当した新人で、私がドがつくほどハマってしまった小説『君と見る夕焼け』を教えてくれた後輩、張本人だ。

 すごい……竹本さんもこの世界に、転生して来ていたなんて!

「まあ! 竹本さん……驚いたわ。貴女も転生していたのね」

「はい! ここに来る前に神様っぽい人に、一人で転生するの嫌だなって言ったんですよ! 良かった! 願いが叶ったんですね! わー! 山下さんも転生していたんですね! すっごく心強いです!」

 え? 神様らしき人に一人で転生するのは、嫌だと言ったですって……?

 そういえば、私はあの時に本を読みながら眠っただけで、死んだ記憶がない。

 もちろん、眠っている時に心臓発作なり、突発的な死という可能性もあるけれど、あまりあることではないわよね。

 そんな私とは違い竹本さんには、死の記憶があるということかしら?

「……え? あの、ごめんなさい。失礼なことを聞くようだけれど、竹本さんは……どんな転生の仕方をしたの?」

「えへへ。私は深夜に酔っ払って赤信号の横断歩道を歩いていたら、トラックに轢かれました!」

 にこにこして明るく答えるような出来事でもない気がするけど、そうなのね……異世界転生もの開幕にはよく見るトラック轢かれ展開なのね。なるほど。

 異世界転生は少し嗜んでいる私だけど、彼女の死因には納得して大きく頷いた。

 ……ただ、竹本さんだけでなく私も異世界に呼ばれた原因が、ここでなんとなくわかった気もするけど、そこを掘り下げても何の良いこともなさそうなので、聞かなかったこととする。

 集中すべき点と捨て置く点を明確にすることは、とっても大切なことよ。無駄な時間を極力排除するためには。

「そうなのね……キャンディスが現れたら、もうこの物語は安心ね。あの子は、ウィリアムは……本当にとっても良い子だから、大事にしてあげてね。髪をといてあげたら喜ぶから……」

 ウィリアムの頑固な癖毛はなかなか言う事を聞いてくれず、私はいつも香油を付けて梳かしてあげていた。これからは、ヒロインキャンディスの役目になる。

 『君と見る夕焼け』の中でだって、小説にはそういう記述はなかったものの、二人はウィリアムの髪をとかしたりする時間を過ごしていたのかもしれない。

「わかりました! モニカとして、ウィリアムとも和解済なんですね。仕事が速い! 流石です! 山下さん!」

 祈るように両手を組んで私を見つめる竹本さん……もとい、キャンディスに私は苦笑いした。

 竹本さんはこうしてわかりやすくおだてていれば、私が代わりに仕事をしてくれると思っている子なのだ……実際、教えるよりも早いと何度かやってしまったことが失敗だった。

 新人の自立心を育むために心を鬼にして見守れなかったということは、指導役の私の不手際にほかならないので、私たちが二人がこんな関係性になってしまったのも彼女のせいではない。