これはもしや何かを企んでいるのではないかと、不審そうな視線を向けられても、そう思うのもおかしくないわよねと納得し、私は涙を流しながらうんうんと頷くばかりである。
だって、モニカはこれまでずっと、ウィリアムを虐めて来た。
こうして彼を油断させたところに、また酷い言葉を投げつけられてしまうのではないかと、警戒していても無理はない。
悲しい。もちろん、私がしたことではないけれど、それがどれだけ酷いことだか、この私には理解出来てしまうから。
「……あの! ウィリアム様、お願いがあるんです!」
泣いていた私がいきなり放った言葉に、驚きを隠せないウィリアムは眉を寄せ一歩引いた。
「なっ……なんだよ。内容によるっ……」
今までひどいことしてきたいじめっ子の私のお願いを、内容によっては聞いてくれるんだ……え。待って。性格が良い子過ぎない? いえいえ。元々ウィリアムは優しくて寛大で、完璧なヒーローだと言えてしまう人だけど。
ううん。そんな場合でもないわ。これって、私にとっては、とっても重要なことだもの。
「頭の毛玉、取らせてください!」
――――私たち二人の間にはその時、長い沈黙が流れた。
ウィリアムは私の言葉の意味を、まだ完全に理解出来ていないようで、ポカンとした表情のままで固まっていた。もしかしたら、思わぬ言葉過ぎて、思考回路がショートしてしまっているのかもしれない。
どうしてもそれをしたくて頷いて欲しくて堪らない私の方はというと、ウィリアムがこれからどんな反応をするのかという強い緊張で、思わずこくりと喉を鳴らしてしまった。
「……はああぁぁぁぁああ?」
大きく息を吐き出すようにして、ウィリアムは口から妙な声を出した。
自分に対して嫌なことしかしなかったモニカが、善意に聞こえる言葉を言い出すなんて、信じられないと驚いているのだろう。
けれど、私もここで譲ってしまう訳にはいかなかった。
「どうかお願いします! そんなにも完璧な容姿を持っているのに、頭に毛玉があるなんて、信じられません! どうして、鋏で切らないんですか?」
「かっ……完璧? 頭でも打ったのか。今まで散々醜い姿だと罵倒していた癖に。どうしたんだお前……刃物のようなものは、俺の宮には置かれない……それはお前とて、知っているだろう」
……そうだ。ウィリアムは王位継承権上の理由から、この宮に幽閉されていても王太子として生かされている。
現王とて今の妻の手前とは言え、自分の息子に対し酷いことをしている自覚はあるのだろう。こんな状況の中でも、自殺することを出来なくしているのだ。
「あ。その設定……鋏にも適応されているんですね。不便ですわ。わかりました! それでは、私が鋏を持ってきますので、少々お待ちください!」
そして、ウィリアムの住む離宮を出て取り急ぎ鋏を持って戻って来た私は、たっぷりと布が使われたドレスのスカート部分に隠し、ツンと澄ましたモニカらしい態度で通り抜ければ、ただ居るだけが仕事になっている門番はいつも通りに見ているだけで何も言わなかった。
まさか、悪役令嬢モニカの中身が入れ替わったことなんて、わからないわよね。
この離宮へ本来なら禁じられている鋏を持ち込むという、やましいことをしている自覚はあるので、私はドキドキしていた。
王太子ウィリアムは彼の住む離宮から出られないように、彼らに見張られているのだ。
そして、使用人はウィリアムの目に触れぬように動き、彼に話しかけられても、決して話すなと厳命されている。目が死んでいるあの門番だって、例外ではない。
たった一人のつらい孤独の中で、彼の人生を真っ暗な不幸に染めてしまうために。
何なの……物語の進行上で、キャンディスと出会う前のウィリアムは不幸でないといけないとは言え、あまりにこれは辛すぎない?
私は王太子ウィリアムには、とりあえず婚約者が居なければと定められた令嬢だから、宮に入ることは許されているけど、話すことと言えば彼自身を常に否定し続け罵る言葉しか口から出なかった。
いくらヒロインキャンディスが彼の前に現れれば助けて貰えるとは言っても、これではあんまりだと思うわ。
……少しくらい、彼の環境改善をしてあげても、良いと思うの。
「え。お前……本当に戻って来たのか……?」
髪を切るための鋏を持って戻って来た私を見て、大きなソファで寝転がりくつろいでいたウィリアムは、非常に驚いて身を起こした。
私がウィリアムに『毛玉を取らせてください』と言ったことを、白昼夢で見た夢幻(ゆめまぼろし)だと思っているのかもしれない。
これは現実なのよ。申し訳ないけど、頭にある毛玉は取らせてもらうわ。
「もうっ……お待ちくださいと、言ったではないですか。ほら、ここに座ってください」
私は彼の座っているソファの座面を指差すと、ウィリアムは不思議なくらい素直に指示に従ってくれた。
髪を整えるために切っても散らばらないようにと、私は彼にここに来る前に物色していた適当な白いテーブルクロスを被せて首のあたりで括った。
私はその姿を見て、ふふっと微笑んだ。
ずいぶんと可愛らしい、大きなてるてる坊主の出来上がり。
「……もう良い。よくわからないが、お前の好きにしろ。髪はまた生えてくるし、どうとでもしてくれ」
モニカの思惑がわからずに投げやりに言ったウィリアムに、私は大丈夫と肩をとんと叩いた。
「はい。仕事はちゃんとしますよ。ほら……」
頭の上にあった大きな毛玉を、ザンっと音をさせて鋏で切り取り払うと、綺麗な黒髪がふさっと彼の襟足にかかった。
身繕いする物だけは、王族として最高級のものを使っているのか、高級石けんの良い匂いがした。
……いいえ。それだって当たり前のことよ。だって、ウィリアムは間違いなく王の血を受け継ぐ王族なのだから。
それも……将来は王位を受け継ぐ権利を持つ王太子よ。
「軽い」
ウィリアムは毛玉のなくなった自分の頭を触って、呆然として呟いた。
髪の一本一本は羽根のように軽いとは言え、あれだけ寄り集まれば重かったのかも知れない。
「ええ。そうでしょうね。あんなにも大きな毛玉があったのですもの。けれど、ウィリアム様の髪は柔らかくて癖があって、季節的に空気が乾燥しているので、香油を付けないとまた毛玉が出来てしまうと思います。一度、お風呂に入りましょう。私がこういった髪の手入れを基本から、教えてあげますから」
母の死後、立場が一気に悪くなり何年も身支度などの世話をしてくれる使用人が居ずに、これまで身支度を見よう見まねでするしかなかったウィリアムは、自分の髪の適切な手入れ法を知らないだけなのだ。
私は誰かに何かを教えることには慣れているし、なんなら優秀なウィリアムは誰にも教わることなく本を読んだだけで、すべてを学んだ人だ。
きっと、すぐに自ら出来る手入れ方法を、すぐに習得してしまうはずだ。
私が彼の髪の毛の長さを整えつつそう言うと、ウィリアムは驚いた表情で私を見た。
「えっ……待ってくれ。お前が俺と風呂に一緒に入るのか?」
「あ。そうですね! その方が、やり方を伝えやすいし、わかりやすいかも知れないです。普段から、乾燥させないように香油を桶に一滴だけ垂らす方法もあるんですよ。付けすぎては、逆効果になってしまうかもしれないですけど……」
髪に香油を付けすぎて海藻みたいなベタベタ髪な王子様を脳内で想像してしまって、私はそれは絶対に嫌だと思ってしまった。
周囲から勝手な期待をされてはガッカリされて、美形の王子様も何かと大変だわ。
「待て待て待て……何を言っている。流石にそれは……嫌だ! ……というか、無理だ。言葉で聞いても覚えられるから、口で教えてくれ」
何故かその時、ウィリアムは涙目になって訴えたので、私は幼い弟のお世話もし慣れているのだし、特に気にしないのにと不思議に思いつつも頷いた。
「そうですか……? そうですね。これから私が言ったことを、毎日してみてください。ろくなお手入れしていなくても、こんなにも綺麗な髪なのです! ちゃんと手入れをすれば、もっともっと艶めいて輝くでしょう……」
ウィリアムは小説のヒーローに相応しく、異性の目を惹くような美しい容姿を持っている。
お飾りの王太子ウィリアムの抱えている問題は、彼が少々幸せになってもなくならないもの。
不遇を耐える悲壮な表情も魅力的だろうけれど、ヒロインキャンディスと出会う前に、少々幸せだったとしても何の問題もないはずだ。
「ああ……しかし……どういうことなんだ。何がしたいんだ。お前。いきなり、言っていることが真逆になったぞ! あの時に、悪魔でも憑いたのか? いや、状況的には天使か? どうか何を思って、いきなり親切にしてくれるのか、理由を率直に教えてくれ。正直に言って、俺には何が起こっているのか良くわからない」
短くなった髪を心配そうに触ったウィリアムは、私が急に自分に親身になったことに戸惑いを隠せない。私は掛けていたテーブルクロスを彼から外して、切った髪を包んで纏めると、にっこり笑って言った。
「ええ。お任せください。私が、貴方をきっと幸せにします!!」
きっと幸せにしてみせるわ。これから先のことなら、熱心な読者である私が一番に理解しているもの。
「……はぁあ? 何を言い出す……なんなんだ? もう、本当に良くわからない」
思いも寄らないだろう宣言に呆気に取られたウィリアムは、自分がやるべき仕事を見つけいきいきした顔の私を見て顔を顰めた。
「モニカ。あの子は……今日は、何をしていたの?」
王女の身分に相応しく豪華なドレスに身を包んだ美しいエレイン様は、彼女の取り巻きである私の隣を通り抜けようとしたその時に、さりげなく質問をした。
「つつがなく、過ごされております……体調なども良く食事も三食、きちんと食べられております。エレイン様」
以前までの悪役令嬢モニカは、こういった時に嬉々として、今日はどれだけ酷い言葉を使って彼を虐めたとエレイン様に報告をしていた。
そうすれば、彼女に喜んで貰えると思い込んでいたからだ……本当に、大きな勘違いだった訳だけれど。
「……そう」
取り巻きの一人である私へ耳打ちをした後で、感情のない返事をし立ち去る、素っ気ない態度の第一王女エレイン様。
けれど、小説を読んでいる私は知っているのだ……今のままでは何も出来ない彼女が、幽閉されている弟ウィリアムを、心から心配しているのを。
私は記憶を取り戻してからというもの、彼へ暴言を吐くだけのために、たまにしか行かなかったウィリアムの宮へと日参するようになった。