don't back

 それから一週間して、私は退院の日を迎えた。

 まだ走れるわけではないけれど、入院する程でもない。これからは定期的にリハビリに通うことになる。最初は週一日、問題なければ月一回に減って、今の感じだと半年以内には完治するらしい。

「お世話になりました」

 お母さんと二人で先生や看護師さんに別れの挨拶をする。病院の人たちには入院中とてもお世話になった。上手に歩けなかった時は励ましてくれ、私が暇そうにしていたら話し相手になってくれた。相手にとったら沢山いる患者の一人なのに、こんなに丁寧に対応してもらえて感謝しかない。

 お母さんくらいの看護師さんが目を細めて言う。

「本当によかったです。夏休みいっぱいは激しい運動を控えて、少しずつ焦らずにね」
「はい」

 これで夢と同じ現実世界に戻るんだ。

 私の体はまだ戻れていないけど。

 病院から出ると、お母さんが予約したタクシーが停まっていた。電車で平気なのに、無理しちゃいけないんだって。

 荷物はボストンバッグ一つ。それもお母さんが持ってくれた。

「咲菜が持てる」
「お母さんが持ちたいの」

 持ちたいって何。お母さんは優しさをごまかすために変なことを言う。別にそのまま言ってくれればいいのに。

 私は手持無沙汰で窓の外をぼんやり眺めた。病室から見える景色とまるで違う。やっと日常に戻った気がする。これからまた私が始まるんだ。

 最寄り駅前でアイス屋さんが見えた。買いたかったけど、言えずに過ぎていく。そして数分して、自宅に着いた。

「ただいまぁ」

 誰もいない家に声をかけてみる。後ろにいたお母さんが「おかえり」と言った。このくだり、お父さんともしたな。

「お母さん、荷物の洗濯物回しちゃうね。それも洗うからパジャマに着替えちゃって」
「また外出るかもよ」
「そしたら、また新しいの着ていいから」

 いちおう病院帰りだからね。大人しく着替えて服を洗濯機に放り込む。このパジャマも久しぶり。

 部屋に行ってベッドに寝転がる。病院のベッドとは柔らかさも広さも違う。やっぱり家が落ち着く。

「ん~~~」

 両腕を伸ばして伸びをする。左側には電子ピアノ。どうせ暇だし、夏休みの宿題はできるだけでいいって言われているから、ピアノでも弾こう。

 近寄ってみると、ほとんど埃は無い。ピアノって二日掃除しないだけで結構埃付くんだよね。お母さん、私がいない間も掃除してくれてたんだ。

 ポーン。

 電源を入れて、ラの音を人差し指で押してみる。懐かしい音が耳を擽った。

「発声だけしてみようかな」

 個室じゃなかったので、病院では歌うことができなかった。毎日歌っていた私にはかなりのストレスだった。でも、これからは違う。

 背筋を伸ばして喉仏を下げる。声は頭の上から出す。

「あー」

 試しにラの音を出してみた。私はそのまま次の音を出せずに立ち尽くした。

 私は絶望した。

 今聞こえた声が、記憶の中のものと全く違っていたからだ。

「うそ」

 喉元に手のひらを当てる。震えながら、もう一度声を出してみた。結果は同じだった。

 なんということだ。一か月半寝ていたため、今まで培ってきた声はすっかり鳴りを潜めてしまった。

 その場に蹲って顔を膝に埋める。肩が揺れ、ポロポロと涙が零れた。

「声、出ないよぉ……ッ」

 私の声が出せない。

 こんなの、私じゃない。

 嫌だ。

 いやだ!

 両手を振り上げる。それはピアノに落ちることはなく、ゆるゆると萎んでいった。

 こうなったのは私が怠けていたわけではない。でも、ピアノの所為でもない。悪いことをしていないものに当たるなんて、分別の付かない赤ちゃんしか許されないことだ。

 鍵盤を撫でる。五歳からの私の相棒。ピアノの側面には、部屋に運ぶ時にお父さんが付けた擦り傷がある。あの時はちょっと泣いちゃった。お父さんだってわざとじゃないのにね。

 また一からじゃなくて、マイナスになっちゃった。
 どうしよう、こんなんじゃソロなんて夢のまた夢だ。
 そもそも、部活に復帰できるのだろうか。

 それすら、私には空の雲だ。

「明日からにしよ」

 ピアノの蓋を閉める。今日は退院したばかりでゆっくりしてと言われている。余計な体力を使わない方がいい。

 譜面台の横に飾ってあるムムちゃんをぎゅうと抱きしめる。

「ムムちゃん、どうしたらいい?」

 返事は無い。当たり前か。

 ムムちゃんとベッドを背もたれにして座る。小さい頃から一緒だからだいぶ毛並みがボサボサになってきた。今度洗って干そう。

「十六日かぁ」

 あれから一週間が過ぎた。私は進めているのかな。スムーズに歩けるようになった。でも、声は戻っていない。

「悲しい」

 まるで、人魚姫になった気分。私は歌えなくなっただけだから、人魚姫に失礼か。でも、歌えないなんて、私じゃない。