don't back

 家原先輩が私の肩に手を置く。

「嫌な思いをしたね。笠野さんはすごく頑張ってる。私たちは知ってる。そのままでいてくれていいから、とりあえず、田尻君と離れるようパート内の立ち位置を変えるね。田尻君にも強く言わないよう言っておくから」

「ありがとうございます……」

 ハンカチで涙を拭う笠野さんを見ているのが辛い。でも、しっかり見ておかないと。家原先輩が落ち着いていたから対処できただけで、私だったら田尻君のこと勢いのまま怒鳴っていたかもしれない。

「今日はどうする? 無理しなくていいよ」
「やります。合唱は楽しいから」
「よかった。私が間に立つから、あっちが何か言ってきても無視していいからね」

 私が胸をどんと叩く。はっきり言って、田尻君より私の方が背が高くて体格が良い。合唱でも物理的にも負けないんだから。

 そうすると、ようやく笠野さんが少しだけ笑ってくれた。

「はい」
「じゃあ、そろそろ準備しよう。時間になる」

 家原先輩が準備室のドアを開ける。男子の先輩が二人立っていた。

「なんか話し声が聞こえたから入りづらくて」
「もう平気だよ。ごめん、お待たせして」
「ううん」

 三年男子の人はみんな穏やかで優しいと思う。久君たちも誰かを悪く言わない。田尻君も根はいいこなのかもしれないけれど、それが人を責めていい理由にはならない。

 準備室から音楽室に入れる内側のドアを覗くと、そこに鞄を置いて部活の準備を始めている人がいた。ドアを全開にして、口パクで大丈夫だとアピールする。

 田尻君は一人椅子に座って、まだ楽譜を見つめていた。自分のしたことについて何か思うことがあればいいんだけど。すぐそれに気付くくらいだったら、最初から言わないか。

 懸念材料は同じパートということ。いくら立ち位置を離したところで歌う場所や音は一緒で、合わせていかないといけない。気持ちがすれ違っているのに、上手くいくのかな。

 コンクール予選まであと二か月。それまでに、ううん、せめて一か月前までにこのわだかまりを解決させないと。

 田尻君に話しかけるか迷っていたら、先生が入ってきた。仕方がない、一旦中断だ。こじれそうなら先生にも報告しないといけないかも。でも、笠野さんはそれを望んでいなさそうなんだよね。

 彼女は物静かで、争いを好まない。自分が原因で先生が巻き込まれることを悲しむだろう。どうにか内々で済ませられるといいけど。

 今日がソロのレッスンが無い日でよかった。今週は先生が忙しいから金曜日だけになったんだ。もし先生がいるところであの言い争いが起きたら、もっと大事になって笠野さんは傷ついたはず。部員全員に知れ渡ったら、それこそ退部してしまう。

 せっかく未経験なのに入ってくれて一生懸命活動してくれているから、できれば三年生まで続けてほしい。

「始めますよ。その前に一人紹介させてね。見学希望の一年生です。どうぞ」
「えっ」