婚約者は誰ですか? ひみつの溺愛メイド生活

 月華中学から帰る途中で、とても大きい市民ホールを見つけた。
 掲示板を見る限り、合唱コンクールやピアノコンクールが頻繁に開催されているらしい。
 行きは急いでいたから気がつかなかったけど、こんなに広い場所があったんだ。
 気になって、すこし中をそのぞいてみようとしたそのときだった。
「ねえ、そこのきみ」
 すぐ後ろに、知らない男の子が立っていた。
 同い年くらいに見えるけど、私服を着ている。
線が細くて、すこし頼りない印象を受けた。
 周りには、わたししかいない。
 状況的にはわたしに話しかけているとしか思えないけど、彼の顔に見覚えはない。
 無闇に知らないひとに返事をしてはいけない、という教えに従って沈黙していたら、彼は、驚きの一言を発した。
「きみ……、藤堂家で働いているメイドの子だよね? メガネはかけていないけど、顔が同じだ」
 ピリッとした緊張感が走る。
 彼は、咲宮ひよりとしてではなく、咲宮ひなとしてのわたしに用事がある?
 でも、面識もないのにどうして……。
 今さら、玲央さまの『不審な動きがある気がする』という言葉がよみがえり、得体の知れない恐怖に襲われた。
 逃げた方がよさそうだ。でも、足が地面に縫いつけられたようになって、動けない。
 彼は、わたしの沈黙を肯定だと受けとったようだ。
 ズボンのポケットから携帯を取り出してなぜか弄ぶったあと、一歩一歩、じわじわと距離をつめてくる。
 昼間なのに、不気味なくらいに人通りがない。息がつまりそうだ。
「答えなよ。和菓子屋のカフェで、悠真と楽しそうにおしゃべりしてたよね?」
「……!」
 そうか。
 あのとき、悠真さまが感じていた不審な視線は、このひとだったんだ!
 頭の中で、バラバラに散らばっていた点同士が、するすると結ばれていく。
 この、悠真さまに対する、異常な執着心は……まさか。
「もしかして、あなたは……直哉さん、なんですか?」
 震える声で名前を出した瞬間、彼は怯えたように肩を跳ねあげた。
 笑っているのに泣きそうな顔で、わたしの腕を強引につかんできた。
「悠真ってば、メイドの子なんかにそんなことまで話したの!? 悠真はいいよねぇ。生まれながらの大金持ち、イケメン、僕よりあとにピアノを始めたくせにコンクールで一位までかっさらって逃げ勝ちだ。それで、なに? ピアノを捨てたかと思えば、今度は、メイドのきみにふわふわと甘ったるく恋なんかしちゃってるわけ!?!」
 !!
 腕をつかんでくる力が強くて、思わず顔をしかめた。
 このひと、ものすごく危険だ!
 瞳がよどんでいて、とてつもなく悲しそう。
「でも、悠真が気に入ったのが、きみで良かったなぁ。藤堂家の御曹司が、単なるメイドに恋をしているなんて知られたら、醜聞だもん」
 そうか。直哉さんは、わたしをただのメイドだと思いこんでいる上で、利用したいんだ。
 悠真さまの立場を、おとしめるために!
 直哉さんは、つかんでいないほうの片腕で、わたしに携帯の画面をつきつけた。
 そこに写りこんでいたのは……、メイド姿のわたしと悠真さまが咲月堂のカフェで楽しそうに笑っている姿だった。
「僕の言うことを聞かなかったら、この写真をSNS上にばらまく」
「なっ!」
「そうしたら、さすがに悠真の両親も黙ってはいないんじゃない?」
「……あなたの望みは、なんなんですか?」
 この人に向かって言いたいことは、山ほどある。
 悠真さまが、どんな想いで、ピアノを辞めたと思っているの……!?
 でも、ここで怒りのままに言葉を返したら、相手の思うツボだ。
 心をしずめよう。冷静になるんだ。
「僕の望みは、悠真が不幸になること」
 ゾクリと、背筋に冷たいものが走った。
 これ以上になく、歪んだ執着だ。
「あいつには、僕と同じぐらいに、不幸でいてほしい。恋なんて甘ったるいものに浮かれていてほしくない。ねえ。今すぐ、藤堂家のメイドをやめてよ? どっちにしろ、この状況じゃ、僕の言うことを聞くしかないだろうけどね」
 あまりの恐怖に目をつむりかけたそのとき、泣きそうになるほど安心する声が響いてきた。
 まるで、闇を切り裂く光のように。
「ひなっ!!」
 来てくれたんだ!
「悠真さま!」
 駆けつけてきた悠真さまは、直哉さんからわたしを引きはがして、かばうように前に立った。
 その様子を見ていた直哉さんが、ニヤリと歪に笑う。
 まるで、わたしと悠真さまを嘲笑うように。
「久しぶりだね、悠真。君に会うのは、あのピアノコンクール以来だ」
「……こんなことをして、なんのつもりだよ。直哉」
 悠真さまは、怒ったように、自分の携帯の画面を直哉さんに見せつけた。
「あははっ。悠真ってば、本当に、そのメイドの子にご執心なんだねぇ。こんな簡単な挑発に乗って、本当にここまでやってくるなんて、バカなんじゃないの?」
 なるほど。
 悠真さまをここに呼んだのは、直哉さん本人だったのか。
「直哉が恨んでいるのはオレだろ? ひなを勝手に巻きこむな」
「ひな、ひなって。さっきからうるさいんだよ! 気に入らない気に入らない。悠真なんて大嫌いだ。お前が不幸にならないと、気が済まない。そのためには、周りにいる誰だって利用する!!」
 ダメだ。
 悠真さまにも、この状況はどうしようもない。
 彼があの写真を悪意をもってバラまけば、悠真さまの名誉と、藤堂家になにかしらの傷を残してしまう可能性がある……! 
 このまま黙っていれば、わたしも藤堂家のメイドをやめざるをえなくなるだろう。
 そんなの嫌だ!!
 こんなところで、悠真さまを傷つけようとする悪意に屈したくはない。
 それならわたしは……、彼を守りたい。
 たとえ、自分の正体が、バレることになったとしても!
「利用はさせません」
 直哉さんがギロリと、悠真さまは困惑したようにわたしを見た。
「なに言ってんの。きみに口出しなんてできるはずがないだろ」
「ひな……?」
 緊張でからだが震えてきた。
 だって、今までウソを吐いていたことを、正直に認めるんだもの。
 これを言ってしまったら、悠真さまとは、もう今まで通りの関係ではいられない。
 本当は婚約者候補なのに、逃げだしたいからメイドのフリをしていたなんて正直に話したら、どんな顔をされるかもわからない。
 でも、それでも。
 ちゃんと、向き合うんだ。
 悠真さまになら、本当の自分を見せてもいい。
 わたしは、二人分の視線を受けとめながら、深呼吸をしてひと思いに言った。
「口出しできます。なぜならわたしはただのメイドではなく……、本当は、老舗和菓子店『咲月堂』の咲宮ひよりだからです」
 時間が止まったようだった。
 直哉さんも、悠真さまも、アゼンとした顔をしてわたしを凝視している。
 わたしを利用しようとしていた直哉さんはともかく、いま、悠真さまがどんな心境なのかは想像するだけでも怖い。
 とりあえず、はてなマークでいっぱいであることだけは間違いないだろう。
「はあ!? 『咲月堂』って……、あの和菓子の? なんだよ、聞いてないんだけど!? ちょーーーーお嬢さまじゃんか!」
 すごい取り乱しようだ。
 直哉さんが想定通りの反応をしてくれてよかった。
「その通りです。直哉さんがそのつもりなら、わたしは、正体を公表してメイドをやめます。そうなると、直哉さんがその写真をバラまいたところで、悠真さまは『咲月堂』の娘とカフェで話していただけということになりますが、どうしますか?」
 なんで咲宮ひよりがメイドのコスプレをしているのか、とつっこまれるのは恥ずかしいけどね……。
 水をかけられて鎮火した炎のように、直哉さんは蒼白な顔をしている。
 これ以上、ヘンな気を起こさないように、太い釘をさしておこう。
「ちなみに、無断で撮影した人の写真を、許可なく勝手にSNSにアップロードすることは肖像権の侵害にもあたります。当然わたしは、家にも相談します。咲宮家が黙っていませんよ?」
「っっ」
 直哉さんは、さすがにすこし同情するレベルで意気消沈すると、さっきから一言も発しない悠真さまを恨めしそうに見た。
「……はーあ。せっかく、お前をゆするいいネタができたと思ったのに、フタをあけてみれば、ただコスプレデート現場を撮ってただけとかマジで萎えるわー」
「こ、コスプレデート……っ!?」
 悠真さまが顔を赤くして反論できずにいるのを見て、わたしもじわじわと恥ずかしくなる。
 そのつもりはなかったけど、たしかにそうとらえられなくもない……のかも。
 直哉さんはふてくされながら、ある意味で開きなおった。
「僕の完敗だよ。気分削がれたし、もう帰るわ」
 これだけの騒ぎを起こしておいて、あっさり帰ろうとした直哉さんを、悠真さまが慌てて引きとめる。
「なぁ、直哉。……お前、まだピアノを弾いてるよな?」
 恐々と、でも、たしかめずにはいられないというように。
 振りかえった直哉さんはフッと笑った。
「続けているに決まってるだろ? なあ、悠真。僕がなんでこんなに怒っているか、わかる?」
「…………」
 直哉さんは、笑っているのに、いまにも泣きそうな顔をした。
「僕は、お前が勝手にピアノを辞めたことが、一番憎かった!! あの瞬間、お前に勝つことが、永遠に叶わなくなったんだ。どれだけ僕が悔しかったか、お前にはわからないだろうな」
「っ。違う!! そういうつもりじゃなかったっ」
「そうとしか受けとれなかったよ。……僕は、絶対にプロになるんだ。一回コンクールで負けた程度で折れるほど弱くはない」
 悠真さまはハッとしたように瞳を見ひらいて……。
 それから、泣きそうな顔で、笑った。
「そっか。それを聞けて、安心したよ。オレさ、直哉のピアノが本当に好きだったんだ。ずっと応援してるよ」
「なったとしても、お前にだけは知らせないし。……真っ直ぐすぎて、嫌味なやつ」
 言葉には棘があったけど、直哉さんの表情は和らいでいて。
 さっきまで曇りだった空に、すっと太陽の光が差しこんできた。
 それがこの二人なりの和解の印に見えて、わたしも笑顔になったんだ。
 
 直哉さんが帰ったあと。
 わたしと悠真さまは、無言のまま、どこへ向かうともなく一緒に歩いていた。
 き、気まず…………っ!
 どうしよう。さっきはなんとかしなきゃ! って必死で正体を明かしてしまったけど、いざとなると、どこから話せばいいものか。
 そういえば、今さらだけど、悠真さまは制服姿だ。
「あ、あの……。いまって、午後の授業の時間帯ですよね?」
「……あ、うん。数年ぶりに直哉から連絡がきたかと思ったら意味深な連絡だったから、驚いて、授業を抜け出してきた」
「そうだったんですか!? す、すみません! すぐに戻りますか?」
「いや、今日はもういいや。っていうか、その……。今さらだけど、敬語やめない?」
「えっ」
 悠真さまは、頬を赤らめながら、わたしの瞳を見つめて言った。
「きみは……、メイドのひなじゃなくて、咲宮ひよりなんでしょ?」 
 バクバクと心臓が鳴りはじめる。
 そういえば、メイドとして彼に接するのは、もう無理があるんだった……!
「そうでした……。本名は、ひよりです」
「敬語じゃん」
「だ、だって! なんか、慣れないというか」
「それで? お家が貧乏なわけがないと思うけど、どうして、藤堂家のメイドとして働いていたの……?」
 そこが一番気になるよね。
 もちろん、もう、隠すつもりはない。
「始まりは、親から、わたしに婚約の話が持ちあがっていると言われたことでした。相手は、藤堂家の息子だと聞きました」
「うん」
「でも、どうしても、受け入れられなかったんです。わたしは、男の子にただでさえ苦手意識があったから、見知らぬひとと婚約なんて絶対に無理だと言いはりました」
「ふふっ」
「なんで笑うんですか?」
「いや? ここから、どうメイドにつながるのかなって、面白くなっちゃって」
 不思議だ。
 悠真さま相手には、なにを言っても大丈夫だという安心感がある。
「それは、お母さんの突飛な提案でした。最初から婚約者として会うから緊張しちゃうんじゃない? だったらメイドさんとして潜入して、相手を見極めたらどう? って。バカみたいな話だと思うでしょ? でも、それが藤堂家のご両親も含めて採用されちゃったんですよ」
「あははっ!」
 悠真さまが口を開けて楽しそうに笑っているのがうれしくて、わたしもつられて笑顔になる。
「わたしにとって、メイドのフリをするのは、時間稼ぎのためだったんです。なんなら、婚約破棄をするために、相手の欠点を探しにいくという最低な考えでした。そしたらなんと……、誰が婚約者かわからないという難題にぶち当たったんです。親も笑ってぜんぜん教えてくれないし、ほんとに散々でしたよ」
 悠真さまは、考え事をするように立ち止まった。
 それから、わたしの真意を確認するように、じっと瞳をのぞきこんでくる。
 見つめあうと、吸いこまれてしまいそうだと思うほどきれいな瞳。
「それで? いまも、逃げたいって思ってるの?」
 悠真さまが、やさしく尋ねるから。
 胸の高鳴りが止まらない。
 大切な相手に、本当の想いを告げるというのは、こんなにも緊張するものなんだ。
「いまは……、あなたが婚約者だったらいいなって、思ってます」
 また、時間が止まったかと思った。
 悠真さまが、かんっぜんに、固まってしまったから。
 どうしよう……。困らせるようなことを言ったかな?
「あ、あの?」
 戸惑いと不安とが大きくなって、思わず、彼の肩を軽くゆすると。
 急に、伸びてきた腕に強く抱きしめられて、心臓が大きく飛び跳ねた。
「ゆ、悠真さま……?」
 頬が赤く上気していて、瞳もわたしだけをうつしている。
「好き」
 ストレートすぎる発言に、今度はわたしが固まった。
 す、すき……? 好きって、あの好き!?
 心臓から、からだが爆発しそうなほど、ドキドキしてしまう。
「婚約者は、オレだよ」
「!!」
 そうだったんだ!
 なんだか夢を見ているみたいだ。
「……正確に言うと、親は、兄弟の誰でもいいって言ってたけど。数か月前に話が出たんだ。怜央兄も陽人もあんまり興味なさそうだったから、オレが手を上げた」
「なんで、手をあげたんですか?」
 意外だ。
 わたしとは面識がないはずだし、悠真さまは、そういうときに自分から動くタイプではなさそうなのに。
 首をかしげていたら、彼はふいっと視線をはずして、恥ずかしそうに答えた。
「……咲月堂の和菓子が、好きだったから」
 そんな理由で!
 そういえば、カフェでも美味しそうに食べていたっけ。
 思わず笑みがこぼれてくる。
「かわいいですね」
「……っ。からかうな」
 彼は、困ったように口を尖らせたけど、すぐに幸せそうに笑った。
 そっと、わたしに、おでこをくっつける。
「でも、あのときに手をあげておいて、心の底からよかったと思ってるよ。だって、ひなのこと……、ううん。ひよりのこと、誰にも渡したくないから」
 ちょ、ちょっと待って!? いきなり、気になるひとからのこんな行動、もう心臓がもちません!
 悠真さま、もしかして、一度懐に入ると和菓子よりも甘いタイプなのでは……!?