婚約者は誰ですか? ひみつの溺愛メイド生活

 藤堂家で働きはじめて、あっという間に一か月が経った。
 自分の手で稼いだ初めてのお給料、ものすごく感動したな。
 もらっているお小遣いではなく、あえてお給料からモカの診察代をお兄ちゃんに渡してから出勤をすると、すみれさんから声をかけられた。  
「ひなちゃん。最近、身のまわりでヘンなことが起こったりはしていない?」
「えっ? 特にはないと思いますけど……」
 最近いろいろなことが一気に起こりすぎて、すみれさんがなんの話をしているのか予想がつかない。
 まさか、陽人さまから抱きしめられた瞬間を目撃されたりはしていないよね……?
 首をかしげていたら、すみれさんは安心したように息をついた。
「そっかぁ、なにも起こっていないならなによりだよ!」
「なにかあったんですか?」
「うーん……。そういうわけじゃないんだけど、すこし前に、怜央さまから忠告されたんだ。ひなちゃんの周辺で不審な動きがないか、気をつけるようにしてって」
 怜央さまが……?
「なんか、不安にさせちゃってごめんね! あたしも具体的に教えてもらえたわけじゃないの。でも、もしもなにかあったときには、すぐに相談してね!」
 すみれさんはそう言って自分の仕事の持ち場に向かっていったけど、胸の中には、不安の種が芽生えた。
 あの怜央さまが、なんの意味もなく、そんなたちの悪い冗談を言うとは思えなくて。
 でも、なんの心当たりもない。
 あとで、本人に直接聞いてみようかな……?

 そう思いながら、もう誰も使っていないとすみれさんが言っていた音楽室へ掃除に入ったら、思わぬ先客がいてビックリした。
「あっ、ひなだ」
「……すみません。お邪魔をしてしまいましたか?」
 ピアノ椅子に腰かけているけど、グランドピアノの蓋は閉じられたままだ。
 以前にすみれさんが、悠真さまはピアノがとても上手だったけど辞めてしまったらしいと言っていたことを思い出す。
「ううん。むしろ、オレが掃除の邪魔だよね」
 すぐに立ち去ろうとしたので、思わず、尋ねてしまった。
「ピアノ、弾かないんですか?」
 以前までのわたしなら、こんな風に、ひとの事情に立ち入るようなことは絶対に聞かなかっただろう。
 でも。
 今は、悠真さまのことを、もっと知りたいと思ってる。
 彼が、わたしの心の傷に、そっと寄りそってくれたように。
 以前もこの部屋を切なそうな瞳で見つめていたし。
 今日、この部屋に来たってことは、やっぱりピアノへの未練がまだ残っているように思えるのだ。
「もう弾かない。……そう決めたはずなのに、時々、なにも知らなかったあの頃に戻って楽しくピアノを弾きたいって思ってしまうんだ。情けないよな」
 それは、独り言のようでもあったし、わたしに聞いてほしそうでもあった。
 だから、なにも言わずに、彼の続きの言葉を受けとめる。
「オレが弾くと、傷つく人間がいる。そう知ってから、ピアノを弾くのが怖くなった」
 傷つく?
 物騒な言葉に、心がザワザワとしはじめる。
「……詳しく聞いても、大丈夫ですか?」
「うん。誰にも話したことなかったけど、ひなには聞いてほしい」
 ストレートな言葉に、彼との距離の縮まりを感じて、こんなときなのに胸が音を立てる。
 わたしには打ち明けていいと思ってくれたことが、素直にうれしくて。
 悠真さまは、すこしだけ沈黙したあと、緊張気味に話しはじめた。
「小学時代に通っていたピアノ教室に、同い年の直哉ってやつがいた。そいつの家は音楽一家で、直哉の夢は、両親のようにプロのピアニストになることだったんだ」
 悠真さまは、直哉さんと気が合って、とても仲良くしていたらしい。
「小学生になってから、興味を持ってピアノ教室に通いだしたオレと違って、直哉は三歳のころからピアノを弾いてた。積み重ねてきたものも、日々の練習量も、プロになりたいというだけあってすごかった。オレは、あいつの奏でる繊細なピアノの音が好きで、憧れていたんだよ。直哉みたいに弾けるようになりたいって」
 直哉さんに憧れた悠真さまは、熱心にピアノを練習したらしい。
 でも、この話は、ピアノ教室で出会った親友との微笑ましい絆の話では終わらないのだとわかる。
 直哉の話をしている悠真さまの表情が、とても悲しそうで。
 心配になってしまって、苦しそうにしている彼の近くへと駆け寄った。
「悠真さま。ムリに話そうとしなくても、大丈夫ですよ……?」
「気を遣わせてごめん。オレは大丈夫だけど、ひなの仕事は大丈夫?」
「わたしは、悠真さまさえよろしければ、話を聞きたいです」
「ありがとう。もしもサボってるって怒られたら、オレがかばうから」
 そっと微笑んで、彼は話を続けた。
「ピアノを始めたてのころは直哉への憧れが強かったけど、ピアノを弾くこと自体も楽しくなっていった。オレは、直哉みたいにプロになろうとは思っていなかったけど、楽しかったから真剣に練習していたんだ。……でも、小学五年生のときに出たコンクールで、全てが変わってしまった。オレなんかが、一位を取ってしまったから」
 一位を取ってしまった。
 その言葉に、強い罪悪感がにじんでいて、胸をつかれた。
「努力が認められたこと自体は、うれしかった。でも……、それ以上に、隣で結果を待っていた直哉の絶望的な表情が忘れられない」
 コンクールというものは、たった数分間の演奏に、それまでの努力の全てが懸かるのだ。
 スポーツの試合でも同じことだけど、そのプレッシャーは計り知れない。
 悠真さまは、深い後悔の念をにじませた顔で、辛そうに語った。
「……その日の直哉は、どこか青白い顔をしていて体調が悪そうだった。コンクールのあとから知ったことだけど、両親から、『このコンクールで絶対に優勝しろ』って圧をかけられていたらしい。でも……、オレはそんなことも知らずに無我夢中で弾いて、たまたま優勝してしまった」
 そんな。
 悠真さまが悪いわけじゃない、というありきたりな言葉で、彼の気持ちが救われるとは思えなかった。
「直哉は、放心した表情で『ははっ。……才能のあるやつには、努力では勝てないんだな』と言って、立ち去ったよ。でも、オレには才能があったわけじゃない。だって、直哉のピアノのほうが、どう考えてもすごかった。コンクールのことは不幸な事故みたいなものだったんだよ」
 自分へ言い聞かせるように絞り出す悠真さまの手に、思わず、そっと自分の手を重ねていた。
 あまりにも震えていて、見ていられなかったから。
 彼が、ハッとしたように、わたしを見る。
 やっと、わたしと目が合った。
「悠真さま。聞かせていただいて、ありがとうございます」
「いや。……ごめん、こんな暗い話をしてしまって」
「いえ。本当に聞くだけでなにもできないのがもどかしいですが、あなたのことを知れて、うれしかったですよ。ピアノを辞めた理由も、とてもやさしいあなたらしいです。直哉さんを、それ以上、傷つけないためだったんですよね?」
 心からの気持ちを伝えると、彼は瞳をまたたいた。
「……やさしくはないよ。オレは、充分、あいつを傷つけてしまったと思う」
「でも、傷つけようと思ってそうしたわけじゃないです。それに、悠真さまは、もう充分すぎるぐらいに自分を責めていると思います」
「そっか……。ひな、聞いてくれてありがとう」
 言葉は短かったけど、彼がほんのりと笑ってくれたから、すこしだけ安心した。
 わたしが、悠真さまから手を放してメガネのズレを直そうとしたそのとき、彼が首をかしげた。
「ねえ。ヘンなことを聞くけど、メイドとして働き始める前、どこかで会ったことがない?」
 えっ。
 予想外の質問に、わたしは笑って返した。
「ないに決まっているじゃないですか。急にどうしたんですか?」
「うーん。そっか」
 悠真さまのビミョウに納得していない顔が気になったけど、追求するのはやめておいた。
 本当に心当たりがないし、ヘンに話を深堀して、正体が発覚してしまったら怖いからね。
 本音では、悠真さまがピアノを弾いているところを見てみたいとも思ったけど、伝えるのはやめた。
 彼にとって、ピアノを弾くという行為は単純なものではないのだと、知ってしまったから。
 でも、いつか悠真さまが、ピアノを弾いている姿を見てみたいな。
 直哉さんはたしかに辛かったと思うけど、悠真さまだって、今でも苦しむほど辛いんだ。
 ピアノ自体を嫌いになったわけではないのに、苦い思い出のせいで、親友も大好きなピアノも失ってしまったのだから。
 なにか悠真さまのために、できることがあればいいんだけど……。

 そうは思ったものの、すぐに名案が思いつくわけもなく。
 数日が経ったある日、わたしは咲宮ひよりとして、律お兄ちゃんの通う月華中学へ向かっていた。
 本当は怜央さまもいるから、正体バレを防ぐためにも、月華中学には近寄りたくない。
 でも……、律お兄ちゃんから『マジでごめん! 今日提出の宿題、うちに忘れてきちゃった! ひより、今日は創立記念日で学校休みだしバイトもなかったよね!? 届けにきてもらってもいいかな』という焦った文面が大量の涙マークと共に送られてきたので放っておけなかったんだよね。
 月華中学の門まで到着して、すぐにスマホを確認した。
 初めてきたけど、月華中学は、門構えからしてセレブ感が漂っていた。
 この厳かな感じ、懐かしいなぁ。昔に通っていた超お嬢さま学校を思い出す。
 さて。
 できれば中には入らずに、律お兄ちゃんと落ちあいたいな。
「あれ? きみは他校の子かな」
 ドキッとした。
 恐る恐る顔をあげれば、今最も遭遇したくない人物――怜央さまが眩しいほどきらきらの制服姿で立っていた。
 う、うわ~~~! 
 昼休みの時間だとが知ってたけど、なんでよりにもよって、校門の前で怜央さまに会っちゃうの!?
 心拍数がロケット急に跳ねあがる。
 落ちつけ、ひより。
 今のわたしは、メイドのひなじゃない。
 普通の私服姿だし、メガネもかけていないし、きっとバレることはないはず……!
 視線をそらして、しれっと答える。
「そうです。お兄ちゃんの忘れ物を届けにきました」
「ふ~ん。優しいんだね?」
 何気ないやりとりなのに、妙な間がめちゃくちゃ怖い。
 なんで初対面のはずなのに、こんなに絡んでくるのー!?
 これ以上、怜央さまに顔を見られたくなくて、足早に立ち去ろうとする。
「では。わたしは、これで……」
「待って。もしかして、きみの言うお兄ちゃんって、咲宮律のこと?」
「えっ! どうしてわかったんですか!?」
「あはは、やっぱり? 律が『これから、かわいいかわいい妹が宿題を届けにきてくれるって』騒いでたから、ピンときたんだよ」
 律お兄ちゃんのバカ! 余計な情報を怜央さまにいれてるじゃん!!
 怜央さまは、戸惑いがピークに達して固まったわたしに近づくと、囁くように言った。
「律が騒ぐだけあって、本当にかわいいんだね。ただの重度なシスコンだと思ってたけど、きみみたいな妹がいたら、ああなるのもわかるかも」
「……」
「律が溺愛してる妹だってわかったら、ますます、きみを専属メイドにしたくなっちゃうなぁ。ねえ、メイドのひなちゃん?」
「ぜんぶわかっていたんですね!?」
 やっぱり油断ならない!
 警戒心マックスで距離をとったら、怜央さまは、楽しそうに唇の端をつりあげた。
「どうして咲宮家のお嬢さまが正体を偽ってメイドのふりなんてしているのか、事情までは知らないけどね? この前、律と一緒に町を歩いていたでしょ。ひみつにしているのなら、もうすこし周囲を警戒したほうがいいんじゃないの」
 ううっ。言っていることはその通りすぎて、反論できない!
 もうバレてしまっているからには、猫をかぶっていても仕方ない。
「わたしのひみつを知って、どうするんですか。みんなにバラして、わたしはメイド解雇ですか?」
 ふてくされたように言えば、怜央さまは意外そうに目をまるくして、くすくすと笑った。
「え~~? そんなもったいないことはしないよー。俺、メイドのひなちゃんが大好きだし、専属になってもらう野望も諦めてないもん」
 ……あれ?
 なんか、思っていたのと違う反応なような。
 怜央さまは、獲物をとらえた肉食獣のように、笑みを深めた。
「いまのきみは、弟たちのほうが気になってるよね? でも、俺も負けたくはないなぁ。ちょっとズルい手を使ってでもね」
 っ!!
 不覚にも、顔が熱くなってしまった。
 っていうか、ちょっとズルい手ってなに!? 怜央さまが言うと、危険な香りしかしないんですけど!
「とりあえず、律の忘れ物はオレが届けておいてあげるよ。優しい男アピールもしておきたいし」
「怜央さまが今さらその路線は無理だと思いますよ」
「あははっ、ほんとに辛らつだよねぇ。そこが好きなんだけど」
 冗談か本気かわからない言い方にドギマギしていたら、怜央さまは去り際にそっとわたしに耳打ちした。
「ねえ、ひよりちゃん。真剣な話、ここのところきみの周囲で、不審な動きがある気がするんだ。帰り道に気をつけてね」 
 今度は違う意味でドキッとする。
「それ、どういう意味ですか?」
「うーん……、俺の気のせいならいいんだけど。あっ。このまま学校をサボって、ボディガードになってあげようか?」
「結構です」
「ちぇっ。俺にも甘えてくれていいのに」
「誰にも甘えたつもりはありません!」
 そんなやりとりをしつつも、もうすぐお昼休みの時間が終わるみたいだから、諦めて怜央さまに宿題を託した。
 あとから、律お兄ちゃんの『藤堂怜央から宿題を渡されたんだけどどういうこと!? ひより、あいつにいじめられなかった? ヘンなことされてないよね!?!』と過剰に心配する連絡を見てしまって、ため息をつくことになったのだった。
 そういえば。
 怜央さまは、わたしの正体に気がついたうえで、目的までは察していないみたいだったな。
 ということは……、彼は、婚約者ではない?
 いや。さすがに、婚約破棄するために乗りこんできたとまで推測はできなかっただけ? うーん、わからない!